永遠の未完成

瞬遥

第1章 解放と覚醒①


1.1 誰にも見られていない場所で


1.1.1 ほどける身体、目覚める記憶


春の終わりの空気は、まだ冬の名残を引きずっていた。

吐く息が白くはならなくても、僕の身体はどこか硬く、芯のあたりが冷えていた。


駅のホームに立っているのが、自分ではないような感覚。

この風景を見送るのか、それとも僕が見送られるのか。

線路の先が、過去を断ち切る刃のようにまっすぐに伸びている。


がらんとした朝の空気に、電車の到着を告げる低音が響いた。

鈍い音が身体の奥で反響し、それだけで背筋が伸びる。


ドアが開き、僕はゆっくりと足を踏み入れた。

たった一歩で、もう戻れない気がした。


車内はまだまばらで、窓際の席に沈むように座る。

扉が閉まり、列車が動き出すと同時に、胸のどこかが“ほどけた”。


肩の力が抜けていく。頬に触れる光がやわらかくなる。

鉄の箱が速度を上げるたび、僕の中に張りついていた“男”の皮膚が、薄く剥がれていくようだった。


窓の外に流れていく町並みが、まるで過去そのものに見えた。


あの家、あの校舎、あの道路。

そのすべての中で、僕は“男の子”として演じてきた。

けれど、その舞台を離れれば、もう誰も僕を“男の子”とは決められない。


目を閉じると、いくつかの記憶が浮かび上がっては、音もなく散っていった。


幼いころ、母のドレッサーの引き出しを開け、真紅の口紅を指に取り、鏡の中の唇にそっと触れた日。

TV画面の向こうで、プリズムのように輝くスカートを翻す少女たちに、なぜか涙が出そうになったあの夜。


そして、中学の頃。

夢の中でセーラー服を着て歩いた通学路。

風がスカートを揺らし、太陽が白いソックスを撫でる。

目が覚めたとき、頬を濡らしていたのは汗ではなかった。


誰にも言わなかった。

言えるはずがなかった。

「女になりたい」なんて言葉は、この町では空気に殺される。


僕はずっと、黙っていた。

声も出さず、視線も合わせず、ずっと「普通の男子高校生」をやっていた。

制服のズボンを履き、無表情に教室の椅子に座り、帰り道ではスカートの揺れる同級生を横目で見ていた。


でもそのたびに、どこかがきしんで、擦れて、痛くなった。

ずっと、痛かった。


窓ガラスに、僕の顔が映っていた。

どこにでもいるような、18歳の男子学生。


けれど、その奥に――

もうひとつの顔が、かすかに見えた気がした。まつげの長い、唇に熱を宿した、まだ名を持たない“誰か”。


ふと、膝の上に置いた右手が微かに震えているのに気づいた。

指先が、冷たく、そして温かかった。


たしかにここに、“私”がいる。

ずっと奥底に閉じ込めていた、あの光が、かすかに揺れている。


列車は加速する。

車輪の音が、僕の中の何かを断ち切っていく。

この音が続く限り、僕はきっと、ほんとうの“私”に近づける。









1.1.2 レースの感触、鏡の前の私


知らない街。

知らない人。


窓から射す光すらも、地元で見ていたものとは少し違う。

淡く、やわらかく、輪郭を溶かしていくような光。


誰も僕を知らない。

その事実が、静寂と一緒に部屋中に満ちていた。

白い壁、何も貼られていない天井、床に置かれた開封されたばかりのスーツケース。

生まれ変わるには、完璧な空間だった。


パソコンの画面の前で、僕はゆっくりとスクロールしていた。

レースの縁取り、淡いピンクとミントグリーン、乳白色のサテン。

そこには、見知らぬ女性の下着が並んでいた。

だが、画面を見ていたのは僕で、そこに欲望を映していたのも僕だった。


いいえ――僕、ではなかった。

「私」が選んだ。


指先でクリックした瞬間、胸の内側でかすかな震えが起きた。

これが、最初の選択。誰に強いられるでもなく、誰の目も気にせず、私の意思で選んだ“かたち”。


数日後、ポストに届いた包みを受け取ったとき、指が汗ばんでいた。

部屋に戻り、扉を閉め、カーテンを引く。

布地の中で揺れる光が、部屋の空気をやさしく包み込んでいた。

ナイフで封を切るように、慎重に包装をほどく。

出てきたのは、繊細なレースのブラとショーツ。


手に取った瞬間、思わず息を呑んだ。

この布は、私を拒まなかった。

肌に触れると、レースはまるで呼吸をしているように感じられた。


それは、ただの布ではない。

明らかに“私のためにあるもの”だった。


それが、わかった。

身体が知っていた。


静寂のなか、僕は服を脱いだ。

冷たい空気が肌を撫でたあと、レースの温度が静かにそこを覆っていった。

乳首に触れた布地が、微かに震える。

足を通すとき、太ももにそっと貼りついたサテンの感触が、心の奥の暗がりをひらいていく。


鏡の前に立つ。

カーテンの隙間から差し込む夕光が、斜めに床を横切っている。

その中に、下着姿の“私”が立っていた。


それは、完璧ではなかった。

肩幅が広く、骨ばっていて、胸はまだ平ら。

けれど、そこには“兆し”があった。確かに“女”の輪郭が、光と影の中に浮かび上がっていた。


視線が胸元を這う。

レースの縁が、肌に繊細な影を落としている。


それを見つめる目が、知らない目になっていた。


「山岡直哉」――

その名を、心の中で繰り返してみる。


…ちがう。


この姿と名前が、どうしても結びつかない。

ひとつの線で繋がらない。響かない。


けれど、そのずれが、不快ではなかった。

むしろ、心地よい背徳感とでも言うべきものが、胸の奥でじわりと広がった。

名と姿の裂け目。

そこから“私”が生まれてくる。

音もなく、でも確かに。


耳を澄ますと、レースが微かにこすれる音が聞こえた。

その音だけが、部屋の中で生きていた。


鏡のなかの“私”と目が合った。

彼女はまだ完成していない。

けれど、彼女はここにいる。

私は、ここにいる。

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