蛙鳴
これは増井さんの話。
大学の部活を終えた後、飲み会からカラオケに雪崩れ込み、気づけば23時を回った。後藤君という後輩が「あ、僕もう出なきゃ」と言った。
「えー、後藤くん帰っちゃうのかよー、オールしてけよー」
と周りは煽った。でもみんな本気ではない。後藤君が何かペットを飼っていて大切にしていることを知っていたからだ。むしろこの時間まで付き合ってくれてありがたい。
「すいませんすいません、お先っす」
前田君に続いて、終電の時間が迫った数人が帰っていった。残ったメンバー、ひとり暮らしをしていたり始発まで粘る者たちも、やがて歌い疲れる。寝る者が出始めた。
増井さんは、寝るなら自分のベッドで寝たいタイプだった。1駅分歩いて、アパートに帰ることにした。
3時を過ぎていた。駅前の町は静まり返っていた。街灯の多い線路沿いを行くことにした。
角を曲がると、数十メートル先に人影があった。立っている影が2つ、地面に寝転んだのが1つ。2人の男が、いま1人に暴力を振るっている。横たわった男に蹴りを入れているのだ。
増井さんは視力が良かった。街灯の光もあって、蹴られている男の姿がよく見えてしまった。
それが明らかに、数時間前に帰ったはずの後藤君だったのだ。彼が着ていたオレンジ色のウインドブレーカー。髪型や体格、地面に頬をつけたその顔。間違いない。
2つの影が、べたりと横たわった後藤君の腹を蹴り上げている。
最悪だ、なんで後藤が、助けなければ――増井さんは瞬時にそう思ったのだが、思いと裏腹に体は固まってしまう。何秒か、呆然と見つめている内に。
「ぐぇ! ぐぇ!」
腹を蹴られるごとに後藤君が呻き声を上げる。その呻き声が、どこか増井さんの知る後藤君のものではないというか、もっと言えば動物的というか。いや増井さんも、人間の呻き声を聞き慣れているわけではないのだが。
「ぐぇ! ぐぇ!」
男たちは何か声を発するでもなく、一定のリズムで後藤君を蹴る。蹴られるたび後藤君が呻く。増井さんは走り出した。彼らに向かってではなく、その場を去るために。
警察を呼ぼう。携帯電話を取り出すが、近くに交番があったはずだからそちらの方が早いかも知れない。線路沿いの通りに入ろうとしたその時、また見えた。
「また」というのは「また」だ。つまり、通りの中ほどで、2人の男が、先ほどとそっくり同じ格好で、先ほどとそっくり同じ後藤君を蹴っている。先ほどの通りから十数秒は走った。何本か隔てた、別の場所なのである。それなのに3人は同じ形で、こちらの通りにもいた。
それで後藤君は、やっぱり先ほどのと同じ呻き声を上げている。「ぐぇ、ぐぇ」
飲み会で酔ったせいか、しかし酔ったとするなら幻覚なのか見間違いなのか、あれは後藤君なのか別人なのか、助けるべきかそもそも実在しないものなのか、すべてわからず困惑する。
3人の向こうにぼんやりと、交番が見える。でも彼らの脇を通っていく勇気はない。呻き声は交番に届いているくらいの大きさなのに、誰も出て来ない。3人と増井さん以外、誰の姿もない。
うわっ、と思って増井さんは、その通りからも顔を背け全力で駆けた。
後ろから「ぐぇ、ぐぇ」という後藤君の呻きが聞こえてくる。
蛙の声に似ている、と増井さんは思った。故郷の川や田園で夏が近づくと聞こえてくる、あの蛙の鳴き声にそっくりだ。
「ぐぇ! ぐぇ! ぐぇー」
翌週、後藤君は何事もない様子で部室に顔を出していた。見たところ怪我などもなさそうだった。増井さんはおずおずと、カラオケのあと無事に帰れたか尋ねてみたという。後藤君は「はい! おかげさまで間に合いました!」とにこやかに答えた。
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