その十三
「この暗がりで百発百中とは……恐れ入ったぜ」
青年は目を丸くして言った。
「こんなの、何の役にも立ちはしないよ」
延蔵は、地面に転がるミカンを拾う。
「僕は宝石のうさぎを捕まえるための脚力も、魅了する歌声も備えていない。何の取柄もない……しがない自殺志願者だ」
「何陰気臭いこと言ってんだよ」
青年は延蔵の背中に向かって言い放つ。
「お前がやってのけたのは投擲だろ? 立派な特技じゃねえか。おかげで俺たちは食い物にありつけるってわけだ。ありがとよ、延蔵」
誰かに礼を言われることは、村で働いていた延蔵にとって別段珍しくもないことであった。
しかし、延蔵の目からはなぜだか涙がぽろぽろとこぼれ落ちてきた。
「お腹空いた」
そう呟いた少女は気付かぬうちに延蔵の隣に佇み、彼が持つミカンを黙々と覗き込んでいた。
「……そうだね。みんなで食べるとしよう」
延蔵は濡れた目元をこっそり拭うと、拾ったミカンを少女に手渡した。
少女は満ち満ちた感情を鼻息とともに吐き出すと、橙色の甘い皮を不器用な手付きで剥き始めた。
「ほら、君も」
青年にミカンを手渡した延蔵は再び石に腰かけた。
甘酸っぱい香りが鼻腔をくすぐる。
延蔵は、幼き日に旅人からミカンを手渡された時のことを思い出した。
あのころと比べたら、自分の手の平の何と大きいことか。焦がれるほど憧れた試練の山を、青年になった僕は視界に捉えている。幼き日の僕が知ったら、きっと泣いて嫉妬し、根拠のない自信で周囲の大人たちを困惑させるに違いない。
僕は今、そんな幼き日の無垢な自分に嫉妬の念を禁じ得ない。箍の外れた桶や、絶食状態で牙を剥く野犬のように自分の欲求に気狂いでいられるなら、きっと気楽に死んでいけるというのに。
成長した延蔵は、いつの間にか矮小になってしまった自分の理性に嘆息した。
「なあ、お前さんも試練の山に挑むつもりなのか?」
青年は、佇む少女を指差す。
「それ、小さいけど鉄檻だろ?」
ミカンの皮剥きに奮闘する少女はその手に高さ一尺の小さな鉄檻を携えていた。
「俺の話、聞いてる?」
「うん、きれいに剥けた」
少女はようやく剥き終えたミカンの一房をひょいと口に含んだ。
「駄目だ。自分の世界に浸ってやがる」
青年は溜息をついた。
「大きいと不便だからね。この鉄檻……ところで、君はどうなんだ?」
延蔵は、隣で
「君はどうして試練の山に挑むつもりなんだ?」
「聴きたいか? だったら、教えてやる」
青年は態度を一変させ、溌溂と話し始める。
「俺には年の離れた兄貴がいる。兄貴は屈強な男で、とにかく全てがデカかった。たっぱがあって、言わば筋骨隆々ってやつだ。一緒に川で泳いだ時に見たイチモツは……おっと、言うだけ野暮だな。なんせ豪快な人だった。そんな村一番の男前に、幼き日の俺は憧れていた」
青年は半分に割ったミカンの房を口に放り込む。
「兄貴は足が速かった。どれくらい速かったかと言えば……そうだな、飛脚が腰を抜かすくらい速かったな。嘘じゃないぞ。甘味処の床几で休んでいた飛脚が、疾走する兄貴に面食らって膝から崩れ落ちたんだ。汚い格好をして薪を背負っている田舎者が突風みたいに走っていくんだ。本職の人間からすれば悔しくて仕方がなかっただろうな。俺はそんな兄貴の真似をして村中を走り回った。いつの日か俺が兄貴を追い抜いてやるんだと躍起になっていた……だが、兄貴は突然村を出ていってしまった。帰ってきたのは、それから三年後、兄貴は二人の仲間と赤い宝石のうさぎを連れていた」
「赤い……ルビーのうさぎだ」
「今まで何やってたんだって聞くと、兄貴はただ一言、『人助け』と答えた。連れとお揃いの派手な合羽を着て……そうそう、ちょうどお前が着ている柄の合羽だ。どうやら三人は怪我や病で苦しむ人たちを治して回っていたらしい。正直、俺には兄貴の生き方が理解できなかった。試練の山に挑んだことも、変な格好で人助けをしていることも、はっきり言って普通じゃない。だが、不思議なことに、その普通じゃない生き方に興味が湧く自分もいた。かつて憧れた男が俺の手が届かない、理解の及ばない所で面白いことをやっている! やろうとしている‼ そんなの、指を咥えて見ていられるかって話だろ?」
熱く語る青年は残りのミカンの房を大口で食らった。
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