その十四
「……僕がまだ幼かったころ、ルビーのうさぎを連れた三人の旅人が村にやって来たことがある。そのうちの一人が君のお兄さんだったかもしれない。彼はとにかく足が速かった。少し怖かったけど、実直で優しい人だったと記憶しているよ」
延蔵が話すと、青年はまるで自分が褒められたような顔で「お前、中々見る目があるじゃねえか」と笑った。
二人の談笑は続き、延蔵は自分の大切な思い出を誰かと共有できたことに歓喜した。
「――で、兄貴が言ったんだ。『こいつが歌う歌はとにかくすげえぞ』って」
青年は言った。
「僕も聴いたことがあるよ。その旅人、美人だったでしょ?」
「ああ、すらっとして艶っぽい人だった。俺はよ、歌なんて母ちゃんの子守歌くらいしか聴いたことがなかったから、歌がなんぼのもんだと思っていたんだ。だが、聴いてびっくり。体が勝手に踊り出すじゃねえか。しまいにゃ村のみんなが集まって、どんちゃん騒ぎのお祭り騒ぎよ……どんな歌だったっけかなあ。確か――」
青年はそう言うと、音を探るように口笛を吹き始めた。走ることしか取柄がないと言っていた割には器用なものである。
青年が奏でる音色はかつて延蔵が聴いた旅人の歌と同じ旋律となって、静かな夜の山間に木霊した。
延蔵が黙して青年の口笛を聴いていると、ミカンを食べ終え、どこか遠くを見つめていた少女がくるりと振り返った。
「私、その歌知ってる」
少女はそう呟くと、右手を胸に当て、深く息を吸い込んだ。
流麗な歌であった。少女の歌声は小さな
口笛を吹く青年はその目を丸くし、すっかり黙り込んでしまった。
夏空に架かった虹が消えてしまう前に
僕ら ここから飛び出さなくては
君も一緒についてきてくれるかい?
そこに何があるかは分からないけど
きっと素晴らしい景色が僕らを待っているから
だから 一番高い所まで上ってみよう
その時だけは怖いことも忘れて
生まれてきたことに感謝するんだ
山の向こうではまだ雨が降り続いている
過ぎ去った悲しみは七色の道を創っていく
君も一緒についてきてくれるかい?
そこに何があるかは分からないけど
「……こんな歌だったんだね」
延蔵は呟き、その頬を一粒の涙が伝った。
幼き日に聴いた歌の意味を期せずして知った延蔵は、その情景の中に勇気を出せずにいる自分の姿を見つけた。
「……楽しかった」
少女の歌声は黄金色の月明かりに溶けていき、彼女は静謐な夜の舞台上で「フウ」と吐息を漏らした。
石に腰かける二人は少女の歌声に圧倒され、声を出せずにいた。
対岸に建つ宿屋からかすかな騒ぎ声が聞こえてくる。
しばらくして、口火を切ったのは、涙を拭う延蔵であった。
「その歌、どこで覚えたんだ?」
延蔵は、ぼんやりと月を見上げる少女に聞いた。
「歌っていたの。赤いうさぎを連れた女の人が」
少女は言う。
「たくさん真似をした……私、歌うことが好きだから」
「好き、か……」
延蔵は遠い目をして言った。
いったい僕は何が好きなのだろうか。今までの人生の中で熱中できることはあっただろうか。
歌うことが好きな少女は優れた歌うたいになり、走ることが好きな青年は立派な肉体を手に入れた。
僕が『好き』と言える何かはこの世界のどこかにあって、僕はまだそれを見つけていないだけなのだろうか。
きっと、そうだったなら。
「……どうやら僕たちは同じ憧れを抱いて、ここに集まったらしい。何でもない、今日という日の夜に」
延蔵はそう言いながら、この奇跡のような出会いに声を出して笑う。
「すごい偶然だ」
「違いねえ」
青年もつられて笑う。
「こりゃあ明日が楽しみだ。お前らみたいに真っすぐな奴らと試練の山に挑めるんだからな……な、そうだろ?」
青年は少女に聞いた。
少女は「あれ、もう一つ食べたい」と果樹になるミカンを指差した。
「……この中で一番肝が据わっているのは、あの女だな」
「うん、僕もそう思うよ」
延蔵は頷くと、足元に転がる手頃な石ころを拾い上げた。
延蔵が投擲で狙ったミカンは面白いように地面に落ちた。
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