その十一


    *


 騒々しい宿屋の大広間に、延蔵の居場所はなかった。彼は歩いてきた廊下を引き返し、揃えていた草履を履き直すと、自分を案内してくれた仲居に頭を下げる。


「……やっぱり泊まるのは、やめておきます」


「勝手にしな」


 仲居は相変わらずの仏頂面で言った。


 宿屋を出た延蔵は一枚の看板を目にした。そこには『試練の山へようこそ』の文字が踊っていた。


 宿屋に泊まる若者たちは浅薄な願望を語り、仲居はそんな彼らを軽蔑していた。


 いったい僕という孤独な挑戦者の居場所はどこにあるのだろうか。自分の夢はあんなにも薄っぺらで汚らしいものだったというのか……この夜が明ければ、僕は試練の山に挑戦するつもりだった。今日、この日のために生きてきたつもりだった。これまでの人生が全て誤りだったとすれば、僕はこの一度限りの人生を、生かされた人生を、無為に過ごしてきたというのか。


 何もない、何者でもない僕はこれから何のために生きていけばいいんだ! 


 その問いの答えが自分の中にないことに、延蔵は気付いていた。


 宿屋から自分と同じ夢を見る者たちの騒ぎ声が聞こえる。


 延蔵は独り夜空を見上げた。そこに浮かぶ黄金色の満月は故郷の村で見るよりも大きいような気がした。


 延蔵はふと、白い鳥居の近くまで散歩することにした。


 それは延蔵の気紛きまぐれであった。小川に架かる木橋を渡った先で、二本の松明は厳かに燃えている。彼は暗闇に伸びる石階段の下で白い鳥居を見上げていた。両柱の距離七間、高さ四丈――それは延蔵が今まで見てきた鳥居のどれよりも大きかった。


 夜明けとともにこの鳥居をくぐれば、人生で一度限りの挑戦が始まる。


 しかし、延蔵の決意はその前夜になって揺らいでいた。


 果たしてこの試練には挑むべき価値があるのか。宿屋にいた相容あいいれない者たちと競い合ってまで成すべき業なのか。


 延蔵はふと、温泉街の入口で話した男のことを思い出した。


 ……目を凝らしても、男の知り合いらしき人影が石階段を下りてくる気配はない。


 今朝、この山に登った挑戦者のうち、いったいどれだけの人数が無事に帰ってきたのか。


 温泉街を訪れた延蔵は未だ鉄檻に捕らえた宝石のうさぎを見ていない。試練に敗れ、満身創痍の挑戦者と擦れ違うこともなかった。彼が見たのは、血気盛んな不束者ふつつかものと、そんな彼らを軽蔑する部外者だけであった。


 グギュルルルウウ……延蔵の思考は腹の虫の唸り声によって掻き消された。


 延蔵は道中、一度も休息を取っていなかった。無論、母から手渡された握り飯も手付かずのままであった。


 延蔵は、そばに転がる石に腰かけ、首に巻いていた風呂敷を広げた。


「お、うまそうな握り飯じゃねえか」


 笹の葉に包まれた握り飯を掴もうとした時、一人の屈強な青年が声をかけてきた。


「それ、俺に一つ恵んでくれよ」


 青年の手には大きな鉄檻が握られていた。


「……そんなことより、なぜ君は裸なんだ?」


 延蔵は、夏の夜に褌一丁で現れた青年に白い目を向ける。


「追剥にでも遭ったのか?」


「断じて違う」


 日に焼けた青年の肌は降り注ぐ月明かりで輝いていた。


「この町へ来る道中、脱ぎ捨てたんだ。暑かったからな。風は生身で受けた方が涼しいだろ?」


 青年はそう言うと、延蔵の隣にどっかりと座る。


「なあ、お前さん、名前は何てんの?」


「……延蔵だけど」


「そうか! うまそうな握り飯だな‼」


 青年は喉を鳴らし、握り飯を一つ掴み取った。


「あ! 僕はまだいいとは言って――」


「……おい、これ腐っているぞ」


 青年は掴んだ握り飯を嗅ぎながら聞く。


「これ、いつ握ったやつ?」


「……今朝だけど」


「一日中持ち歩いていたのか? そりゃあ腐っちまうわけだ」


 青年は掴んだ握り飯をげんなりした顔で見つめた。

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