その十


    *


 軒を連ねていた露店は五町も歩くとぱたりとその姿を消し、延蔵は、月光に照らされる梢の影を踏みながら、とある一軒の宿屋に向かっていた。坂路を行き交う若者が話柄にしていたその宿屋は試練の山のすぐ麓に建っており、挑戦者の多くがそこに泊まっているというのである。


 しばらく歩いていると前方から若者たちの血気盛んな声が聞こえてきた。宿屋の明かりは夜の山中を煌々と照らしている。どうやら坂路で耳にした宿屋の話は本当であったらしい。


 延蔵はようやく同じ志を持つ者たちと会えることに期待し、その足を早めた。


 目的の宿屋は二階建ての豪華な造りをしていた。入口には『試練の山へようこそ』と書かれた看板が大きく掲げられている。


 延蔵はルビーのうさぎを捕まえる機会が訪れたことに頬を緩め、それから、揚々と宿屋の引き戸を開け放った。


「……いらっしゃい」


 延蔵の期待とは裏腹に、彼を出迎えた仲居は不愛想であった。


「お客さん、一人かい?」


 仲居は聞いた。


「あ、はい――」


「悪いけど、個室は満席だよ。泊まるなら相部屋だ。嫌ならとっとと帰っとくれ」


「相部屋ですか……」


 ほかに行く当てのない延蔵は仲居の提案を受けることにした。


「まったく夢追い人なんて迷惑千万だよ……ほら、部屋は二階だ。案内するからついといで」


 仲居は怪訝な顔で言うと、延蔵が草履を脱ぐのも待たずに階段を上り始めてしまった。


 延蔵が通された相部屋は仕切りのない六十畳の薄暗い大広間であった。


「どこでも勝手に布団を敷いて寝ることだ」


 ぶっきらぼうな仲居はそう言い残すと、ピシャリと襖を閉じてしまった。


 取り残された延蔵は、行灯あんどんに照らされた大広間を一瞥し、外まで聞こえる騒音の原因がここにあることを悟った。雑多に敷かれた布団の上で酒を酌み交わす者たちは皆、明日に試練を控える挑戦者であった。


「やっぱりよ。捕まえるならデカい奴だろ」「色は金か銀か、なんせ目立つ方がいい」「俺は宝石のうさぎを捕まえて、町中の乙女を口説き回ってやる」「あんたの鉄檻さ、どこで買ったやつ?」「おい、俺が頼んだ酒はまだか?」「いやいや、まずはたんまり金を稼がねえと」「アハハ、こいつ吐きやがったぞ」「金も女も宝石のうさぎがあれば――」


 ささくれた畳の上には食い散らかした舟盛りや、飲み干した酒瓶が無造作に転がっていた。そればかりか宝石のうさぎを捕まえるための大きな鉄檻でさえ乱雑に放置される始末であった。


 延蔵は、不躾な振る舞いをする若者たちを軽蔑した。


 一度限りの試練の場に赴いてもなお、良き理解者とは巡り合えないのか。


 立ち尽くす延蔵は受け入れがたい現実から目をそらすように障子窓の方へと視線を向けた。


 誰かが月見酒でもするつもりであったのか、半尺ほど開かれた障子窓からは月光が差し込んでいた。窓外で煌めく小川には木橋が架かり、その先にある二本の松明たいまつの灯が、石階段の下で屹立する一基の鳥居の輪郭を白く浮かび上がらせている。


 試練の山はまるで宿屋にたむろする挑戦者たちを見定めるように森閑と聳え立っていた。

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