その九


    *


 早朝に村を出立した延蔵は蝉の鳴き声が響く山々を休むことなく歩き続けた。


 そして、すっかり日が落ちてしまい、夜空にぽっかりと満月の穴が開いた時分、延蔵はようやく硫黄いおう臭い空気が立ち籠める山間の小さな温泉街に辿り着いた。


 緩やかな上り坂は提灯ちょうちんの明かりに照らされ、軒を連ねる露店には多くの若い男女が出入りしている。夜の温泉街はまるで夜市のような賑わいを見せていた。


 いったい村からここまで何里あったのか。いつも村中を駆け回っていた延蔵でも、これだけの距離を歩き通したのは、初めてのことであった。


 延蔵は町の灯で少しだけ白んだ夜空を見上げた。そこには数本の白い湯気がゆらゆらとぼやけて立ち昇っていた。


「――おっと、ごめんよ」


 佇む延蔵の肩にぶつかってきたのは、一人の若い男であった。縞模様の合羽を着た彼の手には大きな鉄檻が提げられていた。


「ちょっと待ってくれ」


 延蔵は咄嗟に男を呼び止めた。


「何だよ、謝罪ならしただろ?」


 男は怪訝な顔で振り返った。


「ぶつかったことは気にしてないんだ。僕が聞きたいのは、その手に持っている鉄檻のことで――」


「それなら、お前も持っているじゃないか。無駄に大きなやつをさ」


 男は延蔵の鉄檻を指差す。


「お前も試練の山に挑戦するんだろ? それとも、夢破れて帰る途中だった?」


「いや、僕は今ここに着いたばかりで……明日にでも挑戦しようと思っているんだ」


「ふうん」


 男はにやりと笑い、延蔵を無遠慮に眺め回す。


「お前の求めているうさぎが何色かは知らないが、何の取柄もないお前にはどうせ捕まえられっこないよ」


「ぼ、僕にだって、取柄の一つくらい――」


「じゃあ、お前には何ができるんだ? 俺に教えてくれよ」


 延蔵はその言葉に何も言い返すことができなかった。試練の山に挑むため、日々村中を駆け回り、山中では歌の練習にも励んでいたが、とうとう彼は、幼き日に出会った旅人たちのようにはなれなかったのである。


「……君はどうなんだ」


 延蔵は苦し紛れに聞き返す。


「君は試練の山に挑戦したのか」


「したさ」


 男は答える。


「だが、すぐに引き返した。あんな不毛な挑戦は時間の無駄だ」


「じゃあ、何で君はそんなにも大きな鉄檻を持っているんだ? 君も宝石のうさぎを捕まえたかったんじゃないのか?」


「俺は知り合いに誘われて、渋々この温泉街に来ただけだ」


 男は吐き捨てるように言う。


「試練の山には登った。白い鳥居をくぐって、あのクソみたいに長い石階段を上って……俺はそこで引き返した。日没を過ぎても、あいつは山を降りてこないから、俺は独り帰路に就くことにしたのさ」


「帰りを待ってあげないのか?」


「そんな義理はない。あいつは危険を承知で試練の山に挑んだんだ。勝手に夢を見て死んでいけばいい。お前も惨めな思いをしたくなければ、今すぐ国へ帰ることだな」


 男はそう言い残すと、延蔵の言葉を待つことなく足早に去ってしまった。


 その小さくなる背中を見ていた延蔵は再び町の賑わいに目を向けた。露店を物色する若者たちは皆、その手に大きな鉄檻を提げていた。


 しかし、若者たちの中に宝石のうさぎを捕らえている者は誰一人としていなかった。


 延蔵は独り、提灯に照らされた緩やかな坂路を上ることにした。

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