その八


    *


「父上、母上、行って参ります」


 翌朝、出立の挨拶をする延蔵は、軒下に立つ両親に深々と頭を下げた。薄明の空が黄金色に滲み始め、山の動物たちがそろそろ目を覚ます時分であった。


 延蔵はかつて出会った旅人たちのように菅笠と唐草模様の合羽という奇矯な格好をしており、その手には膝丈ほどの大きさはある立派な鉄檻を携えていた。これらは全て彼が労働で得た賃金を費やし、村から南へ三里先にある港町で買い揃えた道具であった。


 延蔵は幼年よりルビーのうさぎを捕まえることだけを考え、いつか訪れる挑戦の日に備えていたのである。


「延蔵、本当に行ってしまうの?」


 母は心配そうに聞いた。


「はい。僕はきっとこの日のために生きていた……いや、生かされたのだと思っています。病に伏した僕を旅人たちが救ってくれたように、今度は僕が、弱っている誰かを救いたいのです。僕はそのためにルビーのうさぎを捕まえに行くのです」


「……延蔵の気持ちは分かっているつもりよ。危篤状態だったあなたが治療を受けて、床の中でにこりと笑った時、私は本当に嬉しくて、嬉しくて、夜も眠らずにあなたの顔を覗き込んだ。もしあなたが誰かを救えるような人になったなら、きっとそれはあなただけではなく、皆にとって幸福なことでしょう。だけど――」


 母は口を噤み、言葉を選ぶように続ける。


「だけど、私はあなたのことが心配なの。ルビーのうさぎを捕まえるのは、簡単なことではないのでしょう? 試練の山はとても危険な所だと、旅の医者様は仰っていました。もしも山中で迷ってしまったら、熊に襲われでもしたら……私――」


「僕は母上の子に生まれて良かったと、心から思っています」


 延蔵は母の手を取り、そして、彼女の目を真っすぐに見つめる。


「これから僕が進む道に何が待ち受けているのか。それは実際に歩まなければ分かりません。この選択が望まぬ結果を生むかもしれないことも承知しています。だけど、僕はこの一念に挑まなければならないのです……自らの意思で選び取ることこそが、限りある人生を悔いなきものにする唯一の方法だと、僕は気付いてしまったから」


 気丈に語る延蔵であったが、その目にはうっすらと涙を浮かべていた。彼はその小さな異変を隠すように、首にかけた菅笠を目深に被ってみせた。


「行ってきなさい」


 腕を組む父は静かに告げる。


「働くことだけが人生じゃない」


 それは父からわが子に宛てた門出の言葉であった。


 延蔵は感謝の意を込め、二人に深く頭を下げた。


「……少しだけ待ってちょうだい」


 延蔵が北に向けて歩み出そうとした時、母は急いで土間に引っ込んでしまった。


 それから少しして、母は再び軒下に飛び出してきた。


「これ、足りないかもしれないけど、どこかで食べなさい」


 そう言って母が手渡したのは、笹の葉に包まれた三つの握り飯であった。


「ありがとう、母上」


 延蔵は受け取った握り飯を手早く風呂敷に包むと、ついに試練の山がある北の方角へと歩み始めた。

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