その六
延蔵は気付かぬうちに自分の手を強く握り込んでいた。
「おや、すっかりおじけづいてしまうと思っていたけど……次はルビーのうさぎを捕まえる方法が知りたいんだね? 無論、教えてあげよう。だけど、坊やが試練の山に挑戦するのは、もう少し大きくなってからだよ。体だけでなく、心も大きくなってから挑戦するんだ。その理由は時が来れば分かる。坊やなら、きっと」
旅人はそう言うと、大柄な旅人に声をかける。
「まずは君から教えてあげてくれないかい?」
大柄な旅人は「ああ、いいだろう」と返事をすると、一人縁側から立ち上がった。
そして、着ていた衣服を脱ぎ捨て、その逞しい肉体をあらわにした大柄な旅人は褌姿で延蔵を見下ろす。
「全速力で突っ走る。これがルビーのうさぎを捕まえる方法だ。鉄檻の中のこいつはとにかく足が速かった。だから、俺はそれ以上に速く! もっと速く! 打ち出された弾丸をも凌駕する勢いで走ったのさ‼」
不敵に笑う大柄な旅人はそう叫ぶと、両手を地面に着け、四足の前傾姿勢になった。
そして、前方の一点だけを見据え、全身に力を込めると、次の瞬間には濛々たる土煙だけを残し、大柄な旅人は忽然とその姿を消してしまった。
数秒後、目の前に立ち籠める土煙は強大な風圧によって瞬く間に掻き消された。
そこにあったのは、溢れんばかりに橙色の実を抱える大柄な旅人の姿であった。
「北に一つ山を越えた所にミカンのなる木が生えている。この村に来る道中で見つけたんだ……ほら、お前も一つ食え」
大柄な旅人は息切れ一つすることなく、鮮やかなミカンを延蔵に放り投げる。
「まるで信じられねえって顔だな。だが、小高い山の一つや二つ、風のように駆け抜けられないようじゃ、ルビーのうさぎには到底追いつけない」
大柄な旅人は縁側にどっかりと腰を下ろすと、山のように抱えたミカンを傍らに置く。
「ほら、次はお前の番だ」
大柄な旅人はそう言うと、可憐な旅人にミカンを放り投げた。
可憐な旅人はすらりと伸びた両手の指を花のように開き、飛来する果実を胸元で受け止める。
「美しい歌声で眠りにいざなう。これがルビーのうさぎを捕まえる方法よ」
可憐な旅人は透き通るような美しい声で説明する。
「たとえ相手がどれだけ俊敏でも、眠らせてしまえば追いかける必要はない。だから、私はルビーのうさぎが穏やかな気持ちで眠れるように思いを込めて歌ったの」
可憐な旅人はそう言うと、ひらりと縁側から立ち上がった。
そして、日溜まりの中に一人躍り出ると、自分の胸にそっと手を当て、深く息を吸い込んだ。
それは空の青さよりも、田園に煌めく日の光よりも美しい歌声であった。
その歌の歌詞は、幼い延蔵には少々難解であった。
しかし、延蔵の視線は、内に秘めた思いを形にしていく可憐な旅人の姿に釘付けとなっていた。
「いったい何の騒ぎだ」「いやはや、きれいな歌声」「おや、旅の医者様たちだ」「当方、すっかり元気になりましたぞ」
可憐な旅人の歌声は風に乗って流れていき、いつの間にか村の皆を呼び集めていた。
「どうやら配り回る手間が省けたらしい」
大柄な旅人は豪快に笑うと、山のようなミカンを抱えて立ち上がった。
皆の注目を一身に集める可憐な旅人は一つの流麗な歌を歌い終えた。
そして、再び深く息を吸い込むと、今度は溌溂とした歌を歌い始めた。
「ほほう、この歌は」「体が勝手に動き出すぞ」「何だか愉快な気分になってきた」「おい、誰か笛と太鼓を持ってこい」
村人たちは口々に言いながら、歌うたいの旅人を囲むように踊り始めた。その中には数日前まで病に伏していた者もいた。旅人の治療を受けた彼らは一様に快復し、今では実に楽しげな顔で踊り回っていた。
やがて村人の誰かが可憐な旅人の歌声に合わせて笛や太鼓を鳴らし始めた。たった一人の乙女の歌声は皆を巻き込み、村を挙げてのお祭り騒ぎを作り上げてしまったのである。
いつも難しい顔をしている大人たちが馬鹿みたいにはしゃぎ回っている。そんな奇妙だけど、愉快な状況を目撃した延蔵もまた騒がずにはいられなかった。すでにその体は祭り囃子に合わせて踊り始めていた。
「そうだ坊や、それでいい。僕たちは生きている限り、自由に踊り続けるんだ」
旅人は膝の上に乗せた鉄檻を開錠すると、ルビーのうさぎと向き合うようにして、その頭を撫でてやった。
その瞬間、ありふれた日常という舞台は喜びの赤い光に包まれた。
――この日、村を挙げてのお祭り騒ぎは日が暮れるまで続いた。
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