全てを記録していた少年

弟が死んだのは、半年前のことだった。

死因は不明。死体は見つからず、失踪扱いになっていたが、母はもうすっかり“亡くなった”と決め込んでいる。

私は今、彼の部屋を整理している。ずっと避けていたが、引っ越しが迫っていた。

それで、ようやく開けた。弟の──あの異常な空間を。


まず驚いたのは、ノートパソコンが5台並んでいたことだった。

すべて起動したまま、壁紙も同じ。“夜の山道”のような暗い写真。

1台ずつ確認すると、ログファイル、スクリーンショット、音声データ、夢日記、位置記録……。

部屋の中にはさらに手帳、録音機、壁一面の地図。すべて、ある一点を指していた。


弟が記録していた“ある場所”は、地元でも知られていない裏山の斜面だった。

Google Mapでは存在せず、古地図にだけ細く記された点線のルート。

その道に印が集まっていた。赤いピン、青いペン、マーク、計測数値……。

なぜか、年月ごとの“距離”の変化が記されていた。

「入り口までの距離:800m→720m→640m→…」

まるで、何かが“こちらに近づいている”かのような記録。


ビデオカメラの中には、山道を歩く弟の映像が複数残されていた。

いずれも深夜、1人で撮影していたようだった。

「今は10月7日、気温14度。今日は入り口の音がはっきりした」

「昨日より、足音の響き方が変わっている」

彼は“あの場所”の観測者だった。そして、それをすべて残していた。


驚くべきことに、映像は途中から“風景そのものが変化していく”様子を捉えていた。

ある地点から先、画面に“赤いスプレー”が写り始める。

GPSは狂い、音声が不自然にフェードアウトし、空気の揺らぎがカメラにも伝わっていた。

弟は、あの“通ったはずのトンネル”を、存在の端に記録しようとしていた。


録音データには、断続的に声が入っていた。

「……だれか、いるのか」

「……とおれない……」

「まって……ここに、いる」

再生すると、音声は耳元でささやくように聞こえる。だが、どの方向からとも知れず響いてくる。

まるで、部屋の中に誰かいるような錯覚を覚えた。


最後に、机の引き出しから一通の手紙を見つけた。宛名は「兄貴へ」だった。


『もし俺が戻ってこなかったら、これを読んでくれ。


俺はずっと“見えてた”。あの道が、だんだんこっちに寄ってくるのを。

毎晩夢で見るうちに、分かってきた。あれは“向こう”からやってきてる。

気づかない人間には何もしない。でも、見たら──もう戻れない。


だから俺は全部、記録することにした。

これは観察じゃない。証拠だ。証明だ。


もしお前がこれを読むなら、お願いがある。

“絶対に近づかないでくれ”。

俺が、ここで止めるから。』


弟の部屋は、ほとんど“研究室”だった。

壁にはびっしりと印のついた地図が貼られ、カーテンは閉めきられたまま、埃だけが光に浮いていた。

床には付箋、ノート、USBメモリ、電池式のランタン。壁時計は止まっていたが、日付だけは正確に毎日書き込まれていた。


記録を追っていくと、弟は毎晩決まった時刻に“耳鳴り”を感じていたようだ。

午後2時13分と、午前3時36分。必ずその時間に何かが“通る”という。

その前後に録音された音には、わずかな低周波が含まれていた。

聴覚では知覚できないが、分析ツールでは波形が出ていた。


夢日記も大量に残されていた。B5ノートで14冊。すべて日付と時間、夢の中での“位置”が記録されている。

特徴的だったのは、夢の中でも彼が“観測者”として振る舞っていたことだった。

「第三通路より右に折れ、温度が3度下がる」「風の方向が東から西に逆転」「人影は1名、手には記録機」

まるで、夢ではなく実地調査をしているかのようだった。


壁一面に描かれていた“記号群”も意味を持っていたらしい。

彼なりにパターン化し、記号に仮の意味をつけていた。

「O=開口」「←=通行不能」「●=観測者の死」「Z=出口(偽)」

これらは夢の中に現れるマークであり、実際に録画映像や写真にも類似のものが写っていた。


弟のカメラはある時期から明らかに異常をきたしていた。

本来暗視モードで撮られていたはずの映像が、赤く染まっていたり、撮影時間と位置が一致しなかったり。

日付が“未来”になっているファイルもあった。

そこには、弟の背中と、それを撮影している“もう1人の視点”が記録されていた。


母は弟の異変にずっと気づいていなかった。というより、見ないようにしていた。

「この子は元から変わってたからねぇ……」と笑う姿が、逆に哀しかった。

だが、父だけは黙って一言、「お前がやるしかない」とだけ言った。


記録の中に“家族”はほとんど出てこない。ただ、“兄貴”という言葉だけは何度も綴られていた。


『兄貴は俺と違って、“行かない側”の人間だと思ってた。

でも、もしこの道を見たなら──

頼む、俺みたいに深入りしないで。忘れていい。覚えなくていい。

これだけ書き残すのは、証明のためじゃない。

“記録する者”が必要だからだ。


俺がいなくなっても、この記録が残っていれば、“道”の存在は消えない。

逆に、全てが忘れられたとき──道は自由になる。

だから残す。兄貴のために。世界のために。』


私はその手紙を読んで、初めて涙を流した。

弟が何と戦っていたのか、全部は理解できなかった。

だが、孤独な戦いだったことだけは、痛いほど伝わってきた。


私は今、彼の部屋のデータをすべて外部ストレージに保存している。

このまま誰にも渡さず、鍵をかけるつもりだ。

公開するべきなのかもしれない。けれど──“知ってしまったら戻れない”。

それは、彼の言葉そのものだったから。


この記録は、弟が“道の観測者”として残したものを、兄としてまとめた最後の文書だ。

弟は道の存在を証明しようとした。私はそれを否定もしないし、肯定もしない。

ただ、彼がそこにいたこと、それを誰かが覚えていること。

それだけが、私にとっての真実だ。


その道は、地図の外にあるのではない。

記憶の外に、あるのだ。


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