ただの悪夢だと思っていた
私は高校教師をしている。もう10年以上になるが、こんな経験は初めてだった。
ある朝、生徒が1人、登校しなかった。ただの欠席なら気に留めなかっただろう。だが、その日が「卒業式当日」だったから、話は違った。
連絡はなかった。保護者も「朝までは家にいた」と言う。制服姿で、リュックを背負って出て行ったまま、戻ってこなかった。
そして、その生徒の机の中には、手書きのメモが1枚だけ残されていた。
「もし、夢の続きを見てしまったら、俺はもう帰れないと思う」
教師という立場を抜きにしても、その言葉は不穏すぎた。
私は何気なくその一文を繰り返し読みながら、ある“既視感”を覚えた。
──夢の続きを見る?
どこかで、同じ言葉を聞いたことがある気がしたのだ。
私が若い頃、二十代の後半。教員採用試験に合格し、実家を離れて地方の学校に赴任したばかりの頃。
毎晩、奇妙な夢を見続けた。
コンクリートのトンネル。誰もいない。遠くで風の音がする。壁に赤いスプレーのような記号。
出口が見えるが、歩くたびに遠ざかっていく。
目覚めると、心臓が激しく脈打っていた。
毎晩、同じ夢。だが、次第に夢の中で“進める距離”が増えていった。
私が見ていた夢の中では、いつも“同じ構図”が繰り返されていた。
細長いトンネル、無音、かすれたスプレー跡、足音のない足音。
その風景はまるで、記憶に刻まれた“過去の事実”のようで──夢から覚めても感触が消えなかった。
その生徒──西村は、登校こそ真面目だったが、周囲と馴染もうとしない子だった。
昼休みも一人、校舎裏にいたり、図書室に入り浸っていた。だが、彼が事件や問題を起こしたことはなかった。
だから、いなくなったと聞いたとき、最初に「家出」と考えた者は多かった。
だが、私は──彼が言った「夢の続きを見てしまったら」という言葉が、ずっと頭を離れなかった。
西村は、かつて“教師を目指している”と言っていた。珍しく私にだけよく話しかけてきた。
そのくせ、自分の話はあまりしなかった。代わりに、夢の話をよくしていた。
「先生って、夢を連続で見ることってありますか?」
「昨日の続きから始まったんですよ」
──その言葉を、今になってようやく思い出した。
私は教師としてあるまじき行為だと分かっていながら、彼の机やロッカーを探った。
そこで、一冊のノートを見つけた。中には夢日記のようなものが書かれていた。
《トンネル/通路の壁に数字》《地図にない場所》《音が消える》《出口が見えた》……
私は凍りついた。
それはかつて、私が“夢の中で見ていたもの”とまったく同じだったからだ。
ノートの中には、いくつかの“記号”の描写があった。
逆さまの数字、左右反転した漢字、「音=風=道」など、理解不能な関連付け。
それはまるで、本人なりに“あの場所”のルールを解明しようとしていた痕跡だった。
彼は真剣だった。ただの妄想ではなく、あれが“現実に繋がっている何か”だと信じていたようだった。
あれ以来、夢は見ていなかった。十数年間、私はその記憶を“過去の悪夢”として封じていた。
だが、西村が消えた日の夜、久しぶりにあの夢を見た。
トンネル。静寂。風の音。そして、遠くに誰かの影。
かつては見えなかった“人影”が、今回ははっきりと見えた。
それは──制服姿の生徒だった。
夢の中で見た西村の姿──それは、あまりにも生々しかった。
目を閉じても焼きついて離れない。こちらに手を伸ばしていた。何かを伝えようとしていた。
「先生……」と口が動いたように見えた。声は聞こえなかったが、表情は明らかに“助けを求めて”いた。
そして、私自身の“心の奥”も、あの夢と繋がっていたことを認めざるを得なかった。
翌日、私は偶然を装って、彼の通学路を歩いた。彼の家と学校をつなぐ山道の途中にある側道。
誰も通らない細い坂。かつて、自分も同じような場所を見た記憶がある。
その場所で、私は不自然な空気の“よどみ”を感じた。
鳥の声が止み、葉擦れの音もない。ただ風が、低く唸るように吹いていた。
その時、私は確信した。彼は“夢の中の場所”へ向かってしまったのだと。
夢と現実の境目がわからなくなるというのは、こういう感覚なのかもしれない。
誰も彼を見た者はいない。だが、私は見た。夢の中で、こちらをじっと見ていた彼の目を。
助けられるのか、それとも“もう戻れない”のかは、わからない。
だが、彼は選んだのだ。あの道に入ることを。
私はあの道を再び探そうとしている。正気を疑われるかもしれない。だが、それでも構わない。
西村が、あの夢の先にいるなら、私は彼を見届けなければならない。
それが、教師としての最後の責任なのかもしれない。
この記録は、誰かに届くことを祈って書いている。
夢はただの夢ではない。ときに、それは“何かへ通じる道”になる。
そして、その先に誰かが待っているなら──きっと、あなたにも見えるはずだ。
トンネルの出口は、目覚めのためのものではない。
むしろ、それは永遠に“戻れない入り口”なのかもしれない。
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