空白の案内板
私がその案内板を見つけたのは、ただの偶然だった。
市の観光課に勤めて五年になるが、事務所の倉庫を整理していたときに、裏側に埃をかぶった古い立て看板が立てかけてあった。
錆びた枠にアクリル板、黄ばんだ地図。どう見ても捨てる一歩手前の廃材だった。
だけど、その地図の“ある一点”に、私は目を奪われた。
案内板は、山間の観光ルートを示したものだった。
ハイキングコースや展望台、廃寺、滝の名前が並んでいる。が、それとは別に──“青い線”で描かれた一本の道が、山を横断するように描かれていた。
現在の地図にはない道だった。私の記憶にもなかった。
しかも、その道には「──トンネル」と手書きのような文字が書かれていた。
その文字列の前半はかすれていて読めなかった。
私は気になって、すぐにデジタル地図と照らし合わせた。しかし、その道はなかった。
航空写真にも、道路の痕跡らしきものは写っていない。地形的にも通行できるような傾斜ではなかった。
にもかかわらず、古い案内板には、確かに“存在していた”ように描かれていた。
他の職員に訊いてみたが、誰も知らなかった。
さらに調べるため、古い観光パンフレットを漁った。倉庫の中で昭和後期の資料を見つけた。そこにも、その道が描かれていた。
「新設予定ルート(仮称)」と小さく書かれていた。
だが、記録はそれだけだった。完成したという報告もなければ、開通式の写真も存在しない。
唯一気になったのは、1992年の広報誌に載っていた、計画中止の記事。
「地質不安定のため中止」「未整備エリアは封鎖済み」とだけ簡素に記されていた。
私はそれでも気になって、週末にその場所へ行ってみた。
地図に記されていた位置に近づいてみると、雑草に覆われた細道のようなものが見えた。
舗装はされていなかったが、石が不自然に均されていて、明らかに“かつて道だった”痕跡があった。
さらに進むと、ボロボロの看板が立っていた。
「通行禁止」の赤い文字。その下に、小さく手書きのような落書きが残っていた。
──“ここはもう、地図にない”。
道の奥には、コンクリートのようなものが地面から突き出ていた。
それはまるで、“埋められたトンネルの入口”のように見えた。
私は確かめようと近づいたが、突然、耳鳴りがした。
風も吹いていないのに、確かに耳元で「カツ、カツ……」という足音が聞こえた。
足を止めて後ろを振り返る。誰もいない。息を飲む。視線を左右に走らせる。
だが、静寂だけが返ってきた。あたりには鳥の声も、虫の羽音もなかった。
私は急に怖くなって、足を早めた。
早足で山を下り、舗装道路に戻った瞬間、あの足音はピタリと止んだ。
まるで、山の中にだけ存在する“音”のようだった。
事務所に戻ってから、同僚にあの案内板のことを話した。だが、誰も知らなかった。
「そんな古いの、もう全部処分したんじゃないか?」と言われ、再び倉庫を探してみたが、案内板は見つからなかった。
たしかに、あの地図には描かれていた。だが、もうそれを誰にも見せることができない。
あのトンネルのような構造物も、写真に残そうとスマホを取り出したときには、なぜかシャッターが切れなかった。
バッテリーは十分に残っていたのに、画面が真っ暗になった。
その晩、私は奇妙な夢を見た。
視界が暗い。足元はコンクリート。そして、前方に続く暗いトンネル。
中から、かすかに「おいでよ」と呼ぶ声が聞こえた。女の子のような、でもどこか機械的な声。
声の主を探そうと一歩踏み出すと、目の前の地面が沈み、私は闇に落ちた。
その瞬間に目が覚め、全身が冷たい汗で濡れていた。
目が覚めた後、自分に言い聞かせた。
「あれは偶然だ。疲れてたんだ。夢と現実を混同するな」
だが、心のどこかで“あの道はまだある”と確信していた。
むしろ、誰かがそれを消そうとしている。地図から、資料から、行政の記録から。
いや、それ以上に──人の記憶から。
その夜、私はネットであの道について調べ続けた。
そして見つけた。ある掲示板のスレッド──『通ったはずのトンネルがない』。
いくつかの体験談を読んで、震えが止まらなくなった。そこに書かれていた道、位置、状況。
全部、自分が見たあの“存在しない道”と一致していた。
私は役所の人間だ。オカルトを信じるような性格じゃない。
でも、あの地図は実在した。あのトンネルのような構造物も、確かに存在した。
誰かが、意図的に消している。地図から、記録から、そして人々の記憶からさえも。
この記録は、私が“見たことを忘れないため”に書いている。
それともうひとつ、万が一あの道に足を踏み入れることがあったなら、こう伝えておく。
あの道は、いずれ“帰れなくなる”。
見つけても、近づいてはいけない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます