兄が消えた夜
兄が結婚式の前日に姿を消した。
信じられなかった。式の準備もすべて整っていて、家族も親族も、みんな楽しみにしていた。
兄は几帳面な性格で、遅刻はもちろん、事前連絡なしで何かをすっぽかすような人間じゃない。
だからこそ、異変に気づいたのは早かった。
夜中の1時すぎ。スマホにLINEの通知が来た。
「まだ起きてるか?」
兄からのメッセージだった。
眠気に負けそうになりながらも、「起きてるよ」と返信した数分後、画像が送られてきた。
真っ暗な画面の中央に、ぼんやりと白い輪郭。
最初はよくわからなかった。ただの夜道の写真かとも思った。
でも、妙に歪んで見えた。トンネルのような、何かに包まれたような不気味な画だった。
翌朝、式場に兄は現れなかった。
式場のスタッフが控室に案内しようとしても、姿が見えない。連絡しても繋がらない。
最初は「どこかで渋滞にでも巻き込まれているのでは」と笑っていた親族も、次第に口数を減らしていった。
新婦はドレス姿のまま震えていた。友人たちも困惑していた。
そのうち、新婦の父が「警察に相談した方がいい」と言い出して、母も泣きながら頷いた。
私はその時も、まだ現実だと信じきれていなかった。
兄の車が見つかったのは、その翌日の午後だった。
山道の途中。式場へ向かうルートのひとつだが、普段は使わない裏道だった。
白いセダンが路肩に綺麗に停められていた。ドアは施錠され、事故の形跡もなし。
警察官が中を確認したが、財布、スマホ、スーツケース──すべてが消えていた。
助手席に置かれていたはずの結婚指輪の箱も、なかった。
なのに、シートには兄の座っていた形跡だけが、しっかりと残っていた。
その日から、捜索が始まった。
地元の警察、消防団、親族の一部が手分けして山を探した。
私も何度もその道を往復した。葉の擦れる音、靴音、鳥の声──そんな自然の音が、ただただ虚しかった。
ドローンが空を飛んでいても、何も映らない。
兄が車を停めた位置から、100メートルも進まないうちに道は行き止まりだった。
崖の下も川の奥も調べられた。でも、兄の痕跡はひとつもなかった。
兄のスマホは見つからなかった。でも、クラウドに同期されていた画像が一枚だけ残っていた。
その存在を見つけたとき、私は一縷の希望を感じた。何か、手がかりがあるかもしれないと。
開いた画像を見た瞬間、全身が凍りついた。
暗闇の中にぼんやり浮かぶ、コンクリートのような壁。その奥に続く、深い影。
ブレていてよく見えないが、それは間違いなく“トンネル”だった。
トンネルの中ほどに、うっすらと赤い線が映っていた。スプレーのような、それでいてどこか歪な形。
そして、画像の隅に小さく写っていた“人影”。
私はその時すでに、あるスレッドの存在を知っていた。
──「通ったはずのトンネルがない」
そんなタイトルの投稿が、数ヶ月前に話題になっていた。私は怖いもの見たさで読み漁っていた。
ナビが狂う。抜けた先に道がない。戻ろうとしても道そのものが消えている。
兄の送ってきた画像と、あまりにも一致していた。
GPSの記録もあった。位置情報は山の中腹。あのスレッドの投稿者が言っていた場所と、ほぼ一致していた。
偶然なんかじゃない。兄は、あの場所に“入ってしまった”んだ。
警察は事故か遭難だと決めつけた。家族も次第に言わなくなった。
でも私は、諦めていない。兄はどこかにいる。まだ生きている。
だけど、そこは“この世界じゃない”かもしれない。
私は今日も、あの場所の情報を集め続けている。
この投稿は、誰かへの警告。兄の名前も顔も伏せるけれど、これだけは伝えておきたい。
あの道に、入らないでください。
そこに入ったら、もう──帰ってこられない。
それが、私の祈りです。
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