閑話 笹宮まどかの初恋~その7~
マスターの語る楢崎君の過去は想像を絶するものでした。
おぞましい。
聞いているだけでも身の毛がよだちます。
彼は,常に死に怯えながら,毎日殴られ,蹴られ,時にはたばこを身体に押しつけられていたらしい。
「・・・児童相談所とかは動かなかったんですか?」
「動くには動いたそうだよ。でもね,施設に保護された彼を,翌日には継母が迎えに来る。泣いて『ごめんなさい』って何度も謝ったそうだ。大手旅館の経営者ということもあり,継母の態度を見て彼を家に帰す。するとその日のうちに殴られる。そんなことが何度も続いたそうだよ・・・」
「そんなひどい・・・」
「だから聡二君は『謝罪』が信じられない。『謝る』ということは同じことを繰り返される。そういうことだと思っている。僕が何を言いたいか,分かるね?」
「あ・・・」
私は,自分が犯した最大の過ちに気付いてしまいました。
あんなに泣いたのに,まだまだ涙か溢れて止まりません。
マスターは優しい口調で話してくれましたが,その言葉は自分の犯した罪を激しく糾弾しているように感じました。
「わ,私は,ただ,彼の穏やかな日常を,乱してしまったことに,責任を,感じて・・・」
「うん」
「それを,ただ,謝りたくって・・・」
「うん」
「許してもらって,前のように,仲良くしてもらいたくって・・・」
「過去には,もう戻れないよ?」
その一言で,私の中の全てが壊れました。
「あ,ああああああっ・・・!」
こんなに激しく泣いたのは初めてでした。
涙が止まりません。
自分の罪の大きさに,押しつぶされそうです。
ひとしきり泣いて,少し呼吸が整ったのを見て,マスターから次の言葉を告げられました。
「泣いていても,何も変わらないよ?」
「で,でも,どうすれば・・・」
「君はどうしたい?」
「え・・・?」
そう言われた瞬間,全ての時が止まったような気がしました。
「過去は変えられない。聡二君の傷は簡単は癒えない。前のように,とはどうやっても無理だと思うよ?」
「だ,だったら,もう,楢崎君と一緒にはいられません・・・」
「君は,それでいいのかい?」
「え・・・」
「君は,聡二君のことが好きなんだろう?」
「・・・はい」
そう。
私は楢崎君のことが好き。
その気持ちに嘘はありません。
彼は一杯のカフェオレで,私の『世界』を変えてくれました。
彼はたくさんの『好き』を教えてくれた。
『恋』を教えてくれた。
「聡二君に一番伝えたい言葉はなんだい?」
「・・・『ありがとう』」
「・・・はっはっはっ!」
「・・・?」
マスターは涙目になりながら大笑いしている。
「・・・まどかちゃん,100点満点の回答です」
それまで黙って話を聞いていた陽子さんが優しく声を掛けてくれました。
「ちなみにどうしてその答えに至ったのか教えてもらっても?」
「はい・・・」
正直に話そう。
マスターと陽子さんは誰よりも楢崎君の味方のはず。
それだけは確信しています。
「・・・初めて,カフェオレをごちそうになったとき,私は家庭の問題で,一人で教室で泣いていました」
「・・・そう」
「彼は,何も聞かずに,ポットに入れていたカフェオレを私の机に置いてくれました」
「ほう?」
マスターも興味深げに話を聞いて下さる。
「最初はどういうつもり分からなかったんですけど,カフェオレを飲んだら,とても優しい気持ちになれたんです。それまでの悩みも,苦しみも,悲しみも,全部吹っ飛んでしまいました」
「うふふ」
「そして,シュークリームを一口食べたらとても美味しくて・・・,衝撃的な体験でした」
「ははは」
「あの日,私の『世界』は変わったんです」
「なるほどねえ・・・」
「全部食べ終わった後,私は彼に『ありがとう』と言ったんです」
「・・・」
「自分で言って,『ありがとう』って言ったのいつ振りだったのかって,驚いちゃいました」
「そう・・・」
「家族にも,幼馴染みの親友にも,しばらく言ってなかった言葉です。人に感謝する気持ちを忘れていたのかもしれません。でも・・・」
「・・・」
「楢崎君は,言葉ではなく,一杯のカフェオレだけで,私にその言葉を取り戻してくれたんです・・・」
「なんともまあ,聡二君らしいというか・・・」
「本当にねえ・・・」
「私が『ありがとう』と言ったとき,彼は優しく微笑んでくれました。今思えば,その時から好きになってたんだろうと思います」
「だから『ありがとう』なんだね?」
「はい・・・」
「分かった。君を信じるよ。陽子もそれでいいかい?」
「私は最初からまどかちゃんを信じてましたよ」
「じゃあ,君には話しておこう。でも,この話は何があっても聡二君・・・聡二には内緒にして欲しいんだ」
マスターの雰囲気が変わりました。
陽子さんも気を引き締めた表情をしています。
私が聞いてもいいのか,不安になります。
でも。
きっと今しか聞くことの出来ない話のような気がします。
「・・・お願いします」
私は,今日のマスターの話を忘れない。
多分,一生。
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