「藍姫の記憶、涙雨に霞む面影」
京都紫陽花哀歌 第三話 「藍姫の記憶、涙雨に霞む面影」
夜が明け、空は重く垂れ込めた雲に覆われたままだった。茶屋「さよ」の店内では、小野寺小夜子が割れた写真立てのガラス片を、一枚一枚、静かに拾い集めていた。その姿は痛々しく、菜々美はかける言葉も見つけられずにいた。
「小夜子さん…この写真の女性は、どなたですか?」
菜々美がようやく絞り出した声に、小夜子は顔を上げぬまま、震える声で答えた。
「…母です。小野寺小百合…旧姓は、橘と申しました」
その声は、まるで遠い記憶の彼方から響いてくるようにか細かった。
「橘小百合さん…。では、源治さんが想いを寄せていたのは…そして、この紫陽花は…」
「はい…」小夜子はゆっくりと顔を上げ、濡れた瞳で菜々美を見つめた。「母が、生涯で最も愛した『藍姫』という紫陽花です。そして、源治さんは…母の初恋の人であり、おそらく、生涯忘れられなかった人…だったのだと思います」
堰を切ったように、小夜子は語り始めた。
橘家は、かつて京都でも名の知られた旧家だったが、時代の波に乗り遅れ、小百合が若い頃にはすっかり没落していたという。病弱だった小百合にとって、屋敷の庭にひっそりと咲く「藍姫」だけが、唯一の心の慰めだった。若き日の古川源治は、その橘家の庭師見習いとして出入りしており、二人は身分違いと知りながらも、淡く、しかし純粋な恋心を育んだ。だが、周囲の反対と、何よりも小百合の病弱な身体が、二人の仲を許さなかった。やがて小百合は、その短い生涯を閉じた。
「源治さんは、母の死後もずっと、母のこと、そして母が愛した『藍姫』のことを、心の奥深くに秘めていたのだと思います。私がこの茶屋を始めてから、時折立ち寄っては、母が好きだったお抹茶と干菓子を黙って召し上がっていました。そして、庭に植えた普通の紫陽花を見ては、何かを思い出しているように…遠い目をしていました」
小夜子の白い頬を、一筋の涙が静かに伝った。その面影は、写真の中の若き日の母・小百合と、確かに重なって見えた。
「橘家と、九条家には何か関係が?」菜々美の問いに、小夜子の表情がわずかに曇った。
「詳しくは存じません。ただ、祖母から聞いた話では…橘家が困窮した際、九条家が屋敷の土地や家財道具、美術品などをかなり安く手に入れたとか…あまり良い噂は聞きませんでした。九条道隆さんは、その頃の九条家の当主の息子さんにあたります」
九条道隆の冷淡な態度、そして寺の体面を異常に気にする姿勢の裏に、橘家との過去の因縁、そして「藍姫」の存在が関わっている可能性が色濃くなってきた。もし「藍姫」が非常に希少で価値のある品種だと九条家が知っていたとしたら…。菜々美の胸に、一つの仮説が浮かんだ。九条家は、源治と小夜子の繋がり、そして源治が「藍姫」を再び世に出そうとしていることを察知し、それを何らかの形で阻止しようとしていたのではないか。
「源治さんが亡くなる数日前、女性と電話で口論していたという話を聞きました。何か心当たりはありますか?」
菜々美が慎重に尋ねると、小夜子はハッとしたように顔を上げた。
「…もしかしたら、私かもしれません」
「えっ?」
「数日前、源治さんに電話をしたんです。もうすぐ母の命日だったので…もし、どこかに母の『藍姫』の株が少しでも残っているのなら、一輪でもいいからお墓にお供えしたい、とお願いしたのです。でも、源治さんは『詮索するな』『そっとしておいてくれ』と、いつになく強い口調で…。私も、つい感情的になってしまって…言い争うような形になってしまいました」
小夜子の告白は、源治が何らかの精神的ショックを受けた可能性を裏付けるものだった。しかし、それが直接死に繋がるほどのものだったのだろうか。あるいは、その電話の後、別の誰かとの間で、もっと決定的な出来事があったのだろうか。
「源治さんの傍らにあった、あの美しい『藍姫』は、一体どこから…?」
「おそらく…源治さんが、たった一株だけ、誰にも知られず、密かに守り育てていたのだと思います。母の大切な思い出の品として…。そして、あの日…事件のあった日は、母の月命日でした。もしかしたら、母への手向けとして、あるいは…何かを私に伝えようとして、あの場所に持ってきたのかもしれません」
小夜子の言葉には、源治の深い愛情と、そして拭いきれない哀しみが滲んでいた。だが、なぜ「供えられたように」置かれていたのか。それは源治自身が最後に置いたのか、それとも…?
「実は…私の父も庭師でした。源治さんとは若い頃からの友人で、母のこともよく知っていました。父は数年前に亡くなりましたが、生前、源治さんにはずっと『小百合さんの思い出を頼む』と、よく話していたそうです」
小夜子の父もまた、源治と共に「藍姫」の記憶を守ろうとしていたのかもしれない。
その頃、桐野警部補は、本堂裏手の茂み周辺を再度徹底的に捜査していた。掃除婦の「物音がした」という証言が気にかかっていたのだ。鑑識官が慎重に地面を調べていくと、雨に流されかけてはいたが、何かを引きずったような微かな痕跡と、不自然に踏み荒らされた下草が見つかった。しかし、それだけでは決定的な証拠とは言えなかった。
九条道隆の周辺を探ろうとすると、上層部から「檀家との関係もある。慎重な捜査を」という、事実上の圧力とも取れる指示が入った。
そんな中、桐野のもとに鑑識から新たな報告が舞い込んだ。源治の着ていた雨合羽の袖口と靴底に、ごく微量だが、観音寺の庭の土とは異なる特殊な粘土質の土壌成分が付着していたというのだ。そして、その土壌成分は、データベースによると、かつて橘家の屋敷があったとされる地域の土壌と類似している可能性が高い、と。
小夜子から、橘家の菩提寺が市内北部の静かな場所にあることを聞いた菜々美は、その情報を桐野に伝えつつ、自らもタクシーで向かった。古びてはいるが、手入れの行き届いたその寺の住職に話を聞くと、驚くべき事実が判明した。
「橘小百合様のお墓は、確かにこちらにございます。そして…古川源治さんも、毎月欠かさず、小百合様のお墓参りに来られていましたよ。いつも、小さな紫陽花の鉢植えを持参されて…手を合わせておられました」
住職は記憶を辿るように目を細め、さらに付け加えた。
「そういえば、数日前にもお見えになりました。その時は、いつもより少し思いつめたようなご様子で…お墓の前でしばらく佇んでおられましたが、帰り際にポツリと、『これで、ようやくあの方に顔向けができるかもしれません』と、呟いておられたのが聞こえましたな」
源治のその言葉の意味とは? そして、彼が持参していた紫陽花の鉢植えは、もしかして「藍姫」だったのだろうか?
菜々美が菩提寺の墓地を奥へと進んでいくと、橘家の墓石の前に佇む見覚えのある人影に気づいた。九条道隆だった。彼は雨上がりの湿った空気の中、鋭い目で墓石のあたりを何か見定めるように眺めている。
菜々美の存在に気づいた九条は、冷ややかな視線を向けた。
「また君か。随分と熱心なことだな、フリーライターさん」
「九条さん、あなたは一体何を隠しているんですか? 古川源治さんの死と、『藍姫』、そしてこの橘家と、どんな関係があるのですか!」
菜々美が強い口調で問い詰めると、九条は唇の端に不敵な笑みを浮かべた。
「知りたいかね? だが、真実というものは、時として人を深く傷つけるものだよ」
その時、遠くでゴロゴロと雷鳴が轟き、再び空から雨粒が落ちてきた。紫陽花の色が、雨に濡れて一層濃く、妖しいまでに美しく見える。
九条は降り始めた雨の中、傘も差さずに立ち尽くす菜々美を一瞥すると、何も言わずに静かにその場を去ろうとした。
「待ってください!」菜々美が思わず叫んだ。
その瞬間、菜々美の目は、九条が今しがた離れた場所、苔むした橘家の墓石の陰に、不自然に置かれた小さなビニール袋を見逃さなかった。中には新しい土が少量入っており、まるで何かを埋めた、あるいは掘り起こした跡のようにも見えた。
(まさか…源治さんは、橘家の墓の近くに『藍姫』を移植しようとしていた…? あるいは、何かを…掘り出そうと…?)
菜々美の脳裏に、稲妻のような閃きがあった。
源治の雨合羽についていた観音寺とは違う土壌。彼が口にした「あの方に顔向けができる」という謎の言葉。
そして、九条道隆が、この橘家の墓で何をしていたのか。
事件の真相は、この雨に煙る古都の、さらに深い場所に、静かに隠されている。
(つづく)
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