第二話 「秘めたる想い、藍色の残照」

京都紫陽花哀歌 第二話 「秘めたる想い、藍色の残照」


翌朝、雨は一旦上がったものの、空は依然として重く低い。菜々美は、昨夜のうちにアポイントを取っていた京都大学の葉室頼兼名誉教授の研究室を訪れていた。古都の町家を改装した趣のある建物で、書物が天井まで積み上げられた部屋は、まさに知の聖域といった趣だ。


「ふむ、『玉響(たまゆら)の 露の命と 知りながら 色褪せぬ花に 心惑わす』、ですか」

温和な表情の葉室教授は、菜々美が差し出した和歌のメモを眼鏡越しに見つめ、ゆっくりと口を開いた。

「『玉響』とは、ほんの束の間、はかない様を表す言葉。そして『露の命』もまた、人の命の儚さの比喩としてよく使われます。つまり、この歌の前半は、人の命が露のように儚いものだと知りながら、という意味でしょう」

「では、『色褪せぬ花』とは?」菜々美が問いかける。

「そこがこの歌の肝心なところですな。文字通り、いつまでも色褪せることのない美しい花を指すのかもしれません。あるいは、永遠の美の象徴、理想の女性、あるいは決して変わることのない強い想いを指すとも解釈できます。そして、そんな『色褪せぬ花』に心を奪われ、惑わされてしまう…非常に切ない情念が詠まれています」

葉室教授は少し間を置き、言葉を続けた。

「この歌の調べ、そして内容から察するに、特定のだれかに宛てて詠まれた相聞歌(そうもんか)の可能性が高い。詠み人は、その『色褪せぬ花』のような存在に、強く焦がれ、しかしどこか手の届かない、あるいは叶わぬ想いを抱いていたのかもしれませんな」


葉室教授の言葉は、菜々美の胸に重く響いた。源治が抱えていた「色褪せぬ花」への想いとは何だったのか。

研究室を出ると、スマートフォンが着信を告げた。桐野警部補からだった。

「佐藤さんか。昨日言っていた葉室教授には会ったのか?…そうか。それで、こっちの報告だが、古川源治の司法解剖の結果が出た。直接の死因は急性心筋梗塞。だが、解剖医の見立てでは、何らかの強い精神的ショックが引き金になった可能性も否定できないとのことだ。他殺を示す直接的な証拠は見つかっていない。ただ、状況から事故とも断定できん。引き続き慎重に捜査を進める。それと、懐にあった和歌の筆跡だが、源治さんのものと見て間違いないようだ」

「精神的ショック…ですか」

「ああ。何か強い感情の揺さぶりがあったのかもしれん。まあ、憶測の域を出んがな」

桐野はそれだけ言うと、一方的に電話を切った。


菜々美は、源治が最後に何を想い、何にショックを受けたのか、その謎を解く手がかりを求め、観音寺近くの茶屋「さよ」へと足を向けた。雨上がりの小道に面した小さな店構えで、控えめながらも手入れの行き届いた小さな庭には、露に濡れた初夏の花々が咲いていた。

店の引き戸を開けると、いらっしゃいませ、と奥から落ち着いた声がした。小野寺小夜子だった。昨日見た時よりもさらに憔悴しているように見えたが、菜々美の顔を見ると、静かに会釈した。

「昨日は大変でしたね…」菜々美が切り出すと、小夜子は力なく頷いた。

「源治さんとは、懇意にされていたのですか?」

「…ええ、時折。あの方が手入れされる紫陽花は本当に見事で…。お寺にいらした時は、うちで一服されていくこともありました。紫陽花のお話や、庭の手入れのことなど、少しだけお話しするくらいでしたが」

その言葉は淡々としていたが、菜々美には、彼女が源治に対して単なる顔見知り以上の感情を抱いていたように感じられた。

「源治さんが倒れていた時、傍らに珍しい藍色の紫陽花があったと聞きました。ご存知でしたか?」

菜々美が核心に触れると、小夜子の表情が一瞬、凍りついたように見えた。伏せられた睫毛が微かに震える。

「…いいえ。私も、あんなに美しい藍色の紫陽花は初めて見ました。源治さんが…どこで手に入れられたのか…」

その声は僅かに掠れていた。彼女が何かを隠している、あるいは何かを知りすぎているのではないか。菜々美はそう直感した。小夜子が昨日手にしていた花束は、やはり源治の冥福を祈っていつも供えていた野の花だったと、彼女は静かに答えた。


一方、警察の捜査では、悲鳴をあげた女性が観音寺の若い掃除婦だと判明した。彼女は普段あまり人が立ち入らない本堂裏手の庭に、掃き掃除の用具を取りに行った際、偶然源治の遺体を発見したのだという。強いショックを受けており、「犯人らしき人は見ていません。ただ…源治さんが倒れているのを見た直後、茂みの向こうを誰かがササッと急ぎ足で離れていくような…そんな物音がしたような気がします。でも、雨の音も大きかったですし、姿はまったく…」と曖昧な証言をするに留まった。


その日の午後、菜々美が再び観音寺を訪れると、本堂の奥で月心和尚と九条道隆が話しているのが見えた。九条の声は低く、何かを厳しく問い詰めているような雰囲気だった。

「…ですから、警察には必要なこと以外は…寺の体面というものもございます」

月心和尚の困惑したような声が漏れ聞こえてくる。

菜々美は意を決して二人に近づき、九条に声をかけた。

「九条さん、フリーライターの佐藤と申します。古川源治さんの件で少しお話を伺えませんか?」

九条は冷たい視線を菜々美に向けただけで、眉一つ動かさなかった。

「寺のことは月心和尚に聞けばよかろう。部外者が嗅ぎまわることではない」

その声には、有無を言わせぬ威圧感があった。九条が立ち去った後、月心和尚は深いため息をついた。

「九条様は、昔からああいうお方で…。源治も、若い頃、ほんの一時期ですが、九条様のお屋敷で庭師の見習いをしていたことがあるのです。何か、昔のことでわだかまりでもあったのかもしれませんな…」

和尚の言葉は、新たな疑問を菜々美に投げかけた。


菜々美は、あの謎めいた藍色の紫陽花について調べるため、京都府立植物園の専門家や、古都の古い園芸店を巡った。そして、ある古書店で埃をかぶった園芸書の中に、僅かな記述を見つけた。それは「藍姫(あいひめ)」または「幻の藍」と呼ばれる、ごく一部の好事家の間でかつて栽培されていた極めて珍しい紫陽花だった。通常の交配では生まれにくい深い藍色で、その栽培は非常に難しく、特定の家系や人物によってひっそりと受け継がれてきたという伝説めいた話も残っていた。

その「藍姫」を特に愛し、丹精込めて育てていたのは、数十年前の京都の旧家のお嬢様で、悲恋の末に若くして亡くなったという、まるで物語のような逸話も添えられていた。


その日の夕暮れ時、菜々美は再び月心和尚のもとを訪れた。源治の和歌、そして「藍姫」の情報を伝え、何か心当たりがないか尋ねるためだった。

菜々美の熱意に押されたのか、月心和尚は重い口を開いた。

「…源治にも、若い頃、深く想いを寄せた女性がいたと聞いております。しかし、その女性は…身分も違い、家柄もあって、決して結ばれることはなかったそうです。そして…その女性は、若くして病で亡くなられたとか。源治はずっと、その方のことを胸に秘めて生きてきたのかもしれません。あの和歌も…あるいは、その方を想って口ずさんでいたものかもしれませんな…」

和尚の声は、夕闇に沈む紫陽花の庭に静かに吸い込まれていった。

「実は…」和尚はさらに声を潜めた。「源治が亡くなる数日前、寺の者が、彼が電話で誰かと少し声を荒げて話しているのを聞いたそうです。相手は…女性の声だったようだ、と」


源治が想いを寄せていた女性。「藍姫」。そして電話の相手の女性。点が繋がりそうで、まだ繋がらない。

菜々美は、この事件の真相に近づくためには、小野寺小夜子が何かを知っているに違いないと確信を深めていた。


その夜。

閉店時間を過ぎた茶屋「さよ」の静寂を破り、ガラスの割れる鋭い音が響いた。何者かが裏口から侵入したのだ。店内は僅かに荒らされた跡があったが、金銭が盗まれた様子はなかった。

異変に気づいた近隣住民の通報で駆け付けた警察官が、小夜子と共に店内を確認すると、床に小さな木製の写真立てが落ち、ガラスが粉々に割れていた。

小夜子が震える手で拾い上げた写真立て。その中には、色褪せた一枚の写真が残っていた。

そこには、まだ若々しい頃の源治が、少し照れたような笑顔で立っていた。そして、その隣には、楚々とした佇まいの美しい女性が微笑んでいた。その女性の面影は、どこか小野寺小夜子に似ているようにも見えた。

そして、二人の背景には、まるで絵画のように鮮やかな、あの深く妖艶な藍色をした紫陽花が咲き誇っていた。

「藍姫」だった。


(つづく)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る