「雨夜の告白、重なる嘘と真実」

京都紫陽花哀歌 第四話 「雨夜の告白、重なる嘘と真実」


降り続く雨が、古都の石畳を叩く音だけが響く。菜々美は、九条道隆が橘家の墓前で何かをしていたという疑念を胸に、彼の屋敷を再び訪れていた。インターフォン越しに用件を告げると、しばらくして重厚な門が静かに開いた。通されたのは、能舞台まで備えた広大な日本庭園を望む一室だった。


「またお越しとは、よほど暇を持て余しておいでと見える」

九条道隆は、庭を眺めるように座ったまま、菜々美に視線もくれずに言った。その声には変わらぬ冷たさがあった。

「九条さん、単刀直入に伺います。あなたは橘家の墓で何をしていたのですか? そして、古川源治さんの死に、どう関わっているのですか?」

菜々美は、これまでに集めた情報――橘家と九条家の過去の因縁、九条家が橘家の美術品を安価で手に入れたという古新聞の記事のコピー、そして源治の雨合羽に付着していた土壌が橘家の旧屋敷跡のものと類似しているという警察情報(桐野から非公式に得たものだった)――を、九条の前に静かに差し出した。


九条は初めて菜々美に鋭い視線を向け、それらの資料に目を落とした。しばしの沈黙の後、彼は深いため息をつき、重い口を開いた。

「…そこまで調べたか。よろしい、話そう。我が九条家は代々、古美術や希少な植物の蒐集を道楽としてきた。特に私の父は、あの『藍姫』という紫陽花に並々ならぬ執着を持っていた。橘家の没落に乗じて、その『藍姫』を手に入れようと画策したが、橘小百合が亡くなると共に、その花の行方は分からなくなってしまった」

「あなたも、お父様の遺志を継いで『藍姫』を?」

「そうだ。長年、その行方を追っていた。古川源治がそれを隠し持っている可能性に気づいたのは、つい最近のことだ。観音寺の庭師として、あれほど紫陽花に精通している男が、なぜか『藍姫』だけは寺の庭に植えようとしない。不自然だと思った。そして、彼奴が橘小百合の墓参りを欠かさないことも知っていた」

九条の言葉は淡々としていたが、その瞳の奥には執念のような光が宿っていた。

「橘家の墓に現れたのは、源治がそこに『藍姫』を移植した、あるいは何か手がかりを隠したのではないかと考えたからだ。だが、見つけることはできなかった」


その頃、菜々美は葉室頼兼名誉教授のもとを再び訪れていた。源治が残した「これで、ようやくあの方に顔向けができるかもしれません」という言葉、そして九条家の「藍姫」への執着を伝えると、葉室教授は静かに頷いた。

「源治さんの和歌、『色褪せぬ花に心惑わす』の『色褪せぬ花』…それは、単に橘小百合さんへの変わらぬ想いだけでなく、彼女が愛した『藍姫』そのものを指し、そしてその花を守り抜くという、源治さんの強い意志、あるいは使命感を表していたのかもしれませんな」

教授は茶を一口啜り、言葉を続けた。

「『顔向けができる』という言葉は、小百合さんの思い出そのものである『藍姫』を、彼女が安らかに眠るべき場所に返すこと、あるいは、彼女の死の原因の一つとなったとも言える、九条家のような強欲な者たちの手から守り抜くこと…それを意味していたのではないでしょうか」

葉室教授の言葉は、源治の行動の裏にある深い想いを菜々美に強く印象づけた。


小野寺小夜子は、茶屋に侵入された恐怖と、母の思い出が汚されることへの憤りから、ついに菜々美に全てを打ち明ける決意を固めていた。

「父もまた、源治さんと共に『藍姫』を守ろうとしていたのだと思います。父は生前、源治さんに『藍姫』の株分けを託し、いつか必ず小百合さんの墓前に供えるか、あるいは心から信頼できる者に託してほしい、と遺言のように話していたそうです。私は…そのことを薄々知っていながら、怖くて何も言えませんでした」

小夜子の瞳からは、後悔と悲しみの涙が溢れた。


源治の最期の行動が、徐々に明らかになっていく。彼は、小夜子からの電話で母の命日が近いことを改めて意識し、そして九条道隆からの「藍姫」の引き渡しを迫る執拗なプレッシャーに、精神的に追い詰められていた。

彼は、小百合の月命日であるあの日、「藍姫」の鉢植えを彼女の墓前に供える(あるいは、父の遺志を継いで移植する)ことで、長年の心の重荷を下ろし、小百合への想いを全うしようとしていたのだ。

事件当日、源治は「藍姫」の鉢植えを大切に抱え、観音寺から橘家の菩提寺へ向かった。そして、そこで九条道隆と遭遇した。

九条は力ずくで「藍姫」を奪おうとし、源治と激しい揉み合いになった。その際の強い精神的ショックと身体的負荷が、源治の持病であった心臓に致命的な負担をかけたのではないか。

源治の傍らにあった「藍姫」は、彼が命懸けで守ろうとしたものだった。そして、懐の和歌は、小百合への最後のメッセージであり、九条のような者への無言の抵抗でもあったのだ。


桐野警部補は、源治の雨合羽に付着していた土壌成分の鑑定結果、菩提寺の住職の証言、そして菜々美から提供された情報を総合し、九条道隆への疑いを決定的なものとしていた。

九条のアリバイを再検証し、事件当日の彼の足取りを追跡した結果、彼が事件時刻頃に橘家の菩提寺周辺にいたことが裏付けられた。さらに、鑑識は源治の爪の間から、ごく微量ながら九条が愛用する高級な絹の着物の繊維片を検出した。

桐野は、九条に対し、傷害致死もしくは過失致死の容疑も視野に入れ、任意での事情聴取を要請した。


その夜、雨は一層激しさを増していた。菜々美は、源治が最後に何をしようとしていたのか、その真相を確かめるため、そして何よりも彼の無念を晴らしたい一心で、再び観音寺を訪れていた。本堂裏、源治が倒れていた紫陽花の群生地は、雨に打たれ、重く頭を垂れていた。

そこへ、数台の車が到着し、桐野警部補に促された九条道隆が姿を現した。その表情は硬く、いつもの傲岸な態度は消え失せていた。

雨音にかき消されそうな声で、桐野が九条に問いかける。

「九条さん、古川源治さんが亡くなられたあの日、あなたはこの場所、あるいは橘家の菩提寺で彼と接触しましたね? そして、何があったのですか」


九条はしばらくの間、雨に濡れる紫陽花を黙って見つめていたが、やがて観念したように口を開いた。

「…そうだ。あの日、私は橘家の墓で古川源治と会った。彼奴は『藍姫』の鉢植えを持っていた。私はそれを渡すよう要求したが、彼奴は頑として応じなかった。『この花は小百合様のものだ。あんたのような強欲な人間の手に渡すわけにはいかん』と…」

九条の声は、雨音に負けじと張り上げられたが、どこか力なくだった。

「私は…カッとなり、力ずくで奪おうとした。揉み合いになった。だが、殺すつもりなど毛頭なかった! 彼奴が…突然胸を押さえて倒れたのは、不幸な事故だったのだ…!」

九条はそう主張したが、その言葉を信じる者は誰もいなかった。


「では、源治さんの傍らに『藍姫』が供えられたように置かれていたのは?」菜々美が静かに問いかけた。

九条は顔を歪め、雨に濡れた顔を俯かせた。

「…彼奴が倒れた時、その腕から『藍姫』がこぼれ落ちそうになった。私は…咄嗟にそれを支え、彼奴の傍らに置いた。それだけだ。何の感情も…」

しかし、その言葉とは裏腹に、九条の瞳には一瞬、人間的な動揺と、わずかな良心の呵責のようなものがよぎったのを、菜々美は見逃さなかった。源治の最後の想い、その花に込められた執念が、九条の心をわずかに揺さぶったのかもしれない。


桐野は九条に手錠をかけ、パトカーへと促した。サイレンの音も雨音に吸い込まれ、やがて遠ざかっていく。

後に残されたのは、雨に打たれる紫陽花と、菜々美だけだった。

事件は一応の解決を見た。だが、菜々美の胸には、釈然としない何かが残っていた。本当に、全てが事故だったのだろうか。九条の言葉は、どこまでが真実で、どこまでが自己保身のための嘘だったのか。


雨はまだ止まない。

この雨の京都で起きた哀しい事件。その真相の全てが、この雨と共に洗い流されることはないだろう。人の想いは、そう簡単には消えないのだから。


(つづく)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る