京都紫陽花哀歌 第一話

京都紫陽花哀歌 第一話


梅雨空が低く垂れ込める京都。古都の石畳をしっとりと濡らす雨は、時折その勢いを強め、佐藤菜々美の差す傘を重く叩いた。フリーライターである彼女は今日、紫陽花の名所として知られる古刹「観音寺」を取材で訪れることになっていた。タクシーを降り、山門へと続く石段を見上げると、そこには雨に煙る緑の中に、色とりどりの紫陽花がまるで宝石のように咲き誇っていた。


「うわぁ……」

思わず感嘆の声が漏れる。青、紫、白、淡い紅。雨粒を纏い、一層鮮やかさを増した花々は、まさに万華鏡のようだ。日本の伝統文化や歴史に深い造詣を持つ菜々美にとって、この光景はたまらない魅力があった。


山門をくぐり、境内へと足を踏み入れると、そこは紫陽花の海だった。本堂へと続く参道の両脇はもちろん、苔むした庭石の陰、古木の根元、あらゆる場所に紫陽花が植えられている。その手入れの見事さに、この寺の庭師の丹精が偲ばれた。

ふと、本堂へ向かう途中の庭の一角で、雨合羽を着た老人が黙々と紫陽花の手入れをしている姿が目に入った。古川源治、六十八歳。観音寺に長年仕える庭師であり、今日の取材で少し話を聞く予定にもなっていた。寡黙だが、その眼差しは剪定する一枝一枝に深い愛情を注いでいるように見えた。


菜々美はまず、観音寺の住職である月心和尚に挨拶し、寺の歴史や紫陽花について取材を行った。穏やかで博識な和尚の話は興味深く、あっという間に時間は過ぎた。

「源治さんにもお話を伺いたいのですが」

菜々美が切り出すと、月心和尚は少し表情を曇らせた。

「ああ、源治ならおそらく、いつものように紫陽花の世話をしておるでしょう。ただ、あいつは口下手でしてな……うまく話を引き出せるかどうか」

そう言いながらも、和尚は源治がいるであろう場所を教えてくれた。


本堂裏手、ひときわ見事な紫陽花が群生する一角。菜々美がそこへ向かおうとした、その時だった。

「きゃあああああっ!」

甲高い女性の悲鳴が、雨音を切り裂いて境内に響き渡った。

菜々美と月心和尚は顔を見合わせ、悲鳴がした方へと急いだ。

本堂から少し離れた、普段は人の立ち入らないような奥まった庭。そこには、一番美しいとされる大株の紫陽花が植えられていた。そして、その根本に。

「源治さんっ!」

月心和尚の悲痛な声が響いた。

雨に打たれ、泥に汚れた雨合羽姿の古川源治が、まるで紫陽花に抱かれるようにして倒れていた。その傍らには、彼が使っていたであろう剪定鋏が転がっている。

そして、菜々美の目を釘付けにしたのは、源治の冷たくなった手のすぐそばに、まるで供えられたかのように置かれた一輪の紫陽花だった。それは、境内の他のどの紫陽花とも違う、見たことのない深く妖艶な藍色をした、珍しい品種の花だった。


すぐに寺の者が警察に通報し、ほどなくしてサイレンの音が近づいてきた。

雨の中、現場検証が始まる。現れたのは、京都府警捜査一課の桐野と名乗る四十代の警部補だった。鋭い目つきで現場を見回し、関係者に手際よく指示を出す。

「あんたは?」

桐野の視線が、傘を差して佇む菜々美に向けられた。

「フリーライターの佐藤です。今日は観音寺の取材で……」

「部外者はあちらへ。ここは立ち入り禁止だ」

桐野は事務的な口調で菜々美を退かせようとする。

菜々美は少しむっとしたが、おとなしく距離を取った。しかし、その場を離れる気にはなれなかった。源治の死、そしてあの謎めいた一輪の紫陽花。ただの事故とは思えない何かが、この雨の古刹には渦巻いている気がした。


やがて、検分を進めていた鑑識官の一人が、桐野に何かを報告した。桐野の表情が険しくなる。

「被害者の懐から、これが」

鑑識官がピンセットでつまみ上げたのは、雨に濡れて滲みかけた和紙の切れ端だった。そこには、墨で書かれた文字が見える。

「和歌……か」

桐野が呟くのが聞こえた。


その時、一台の黒塗りの高級車が静かに寺の駐車場に滑り込んできた。降りてきたのは、見るからに威厳のある、五十代後半の男性だった。

「九条様……」

月心和尚が、驚いたようにその名を口にする。

九条道隆。京都の名家・九条家の現当主であり、観音寺の主要な檀家でもある。彼は寺の人間から事情を聞くと、源治の遺体が横たわる場所に一瞥をくれただけで、眉一つ動かさなかった。

「月心和尚、これは一体どういうことかな。寺の庭でこのような騒ぎとは」

その声は低く、感情の起伏を感じさせない。源治の死に対する悲しみよりも、寺の体面を気にするような口ぶりに、菜々美は違和感を覚えた。


ふと、菜々美は少し離れた場所から、雨に濡れながらじっとこちらを見つめる女性の姿に気づいた。年は四十代くらいだろうか。清楚で控えめな印象の女性は、手に小さな花束を抱えていた。彼女は、寺の近くで小さな茶屋を営む小野寺小夜子だった。時折、源治が手入れする紫陽花を眺めに寺を訪れていたと、先ほど月心和尚が話していたのを思い出す。その瞳は深く潤み、何かを堪えているように見えた。


「桐野警部補、何か分かりましたか?」

取材の機会をうかがっていた菜々美が、少しタイミングを見計らって声をかける。

桐野は迷惑そうに一瞥したが、やがて口を開いた。

「まだ何とも言えん。だが、事故とは断定できん状況だ。被害者の傍にあったあの珍しい紫陽花…あれは庭のどこにも咲いていない品種らしい。そして、この和歌だ」

桐野は懐から取り出したビニール袋に入った紙片を菜々美に見せた。滲んではいたが、そこには確かに流麗な筆致で和歌が記されている。

「『……玉響(たまゆら)の 露の命と 知りながら 色褪せぬ花に 心惑わす』か…」

桐野が読み上げる。


月心和尚が、はっとしたように顔を上げた。

「それは…源治が時折口ずさんでいた歌やもしれませぬ。古い歌だと聞いておりましたが…まさか、このような形で…」

和尚の声は震えていた。彼もまた、源治の死とこの和歌、そしてあの謎の紫陽花の関連に、何か不吉なものを感じ取っているようだった。


雨は依然として降り続いている。色とりどりの紫陽花が、まるでこの悲劇を嘆くかのように雨に濡れそぼっていた。

菜々美は、この雨の京都で起きた庭師の謎の死と、残された紫陽花と和歌に、ただならぬ因縁を感じずにはいられなかった。

(この和歌の意味は何だろう? そして、あの紫陽花は誰が何のために…?)

好奇心とジャーナリストとしての本能が、菜々美の中で疼き始める。

「あの、和歌の解釈なのですが、京都大学の葉室頼兼名誉教授をご存知ですか? 古典文学の権威でいらっしゃいますが…」

菜々美は、かつて取材で世話になった老教授のことを思い出し、桐野に提案した。

桐野は訝しげな顔をしたが、すぐに「分かった、検討しよう」とだけ答えた。


菜々美は、そぼ降る雨の中、観音寺を後にした。心の中には、解き明かされねばならない謎の存在が、雨に濡れた紫陽花の色のように鮮やかに、そして重く刻み込まれていた。

これは、単なる殺人事件ではない。もっと深い、悲しい物語が隠されている。

そんな予感が、菜々美の胸を締め付けていた。


(つづく)

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