第2話
陽菜はほたるの幼なじみだった。
家が近かったせいで――その当時、ほたるの家は陽菜の家の二軒先にあった――友達はたくさんいたが、陽菜といちばん遊んだ記憶がある。
陽菜はちょっとぼんやりしたところのある女の子だった。
笑顔はかわいかったが、どんくさくて、缶蹴りや鬼ごっこをしようと友達同士で集まるとき、いつも人に遅れてしまうような女の子だった。
小学校では、授業中に先生に指されても、見当はずれな答をする。
簡単な足し算も数が5を超えると間違えたし、ひらがななんか、いくらほたるが教えても、書き順がめちゃくちゃだった。
だが、ほたるは陽菜が好きだった。
妹のように感じていたのだと思う。
ほたるが面倒を見てやらないと、何もできないと思っていた。ほたるには三つ年上の姉がいた。賢くて要領のいい姉に、ほたるはいつも引け目を感じていた。だが、陽菜の前では、自分を大きくたのもしく感じられた。
学校の行き帰りはいつもいっしょだった。
この鉄工所の前の道も、よくいっしょに歩いたものだ。
学校からは回り道になるが、広々とした畑の続く道は、季節ごとに顔を変え、飽きなかった。
神社の大きな銀杏の木や、土手のススキやタンポポ。
空はいつも晴れていた印象しかない。
いや、もちろん、雨の日もあった。明るい雨だ。陽菜の黄色い傘。自分の水色の傘。傘をくるくると回してふざけあった。
楽しかった。
黄金のような日々だ。
そう。
あの事件が起きるまでは。
小学校一年の冬休み前。クリスマスにあと二日という木枯らしの冷たい日だった。
陽菜は登校する前、母親と行った眼科の帰りに、行方不明になった。
二、三日前から右目にものもらいができていた陽菜は、母親に連れられて、市内の中心部にある眼科へ行った。簡単な消毒で治療は終わり、薬を貰えば、二時間目には学校に着けるはずだった。
薬は、眼科の近くにある薬局で受け取る。
運悪く、その日は混んでいた。それで、待ち時間の間、陽菜は、薬局の隣のおもちゃ屋に行った。
あの頃は、まだ、おもちゃ屋なるものが存在していたのだ。ファミコンが子どもたちの遊びの形を変える寸前の頃の話だ。
陽菜は、わずかな時間、一人になった。
そして、そのほんの十分かそこらの間に見知らぬ男に声をかけられ、どこかへ行ってしまった。
声をかけたのは、
当時二十七歳。
宮崎県で勤めていた食品工場を辞め、あてもなく旅をしている最中だった。
関谷は、五時間にわたり陽菜を連れ回した。
当時、関谷は、警察の調べに
「陽菜ちゃんがいっしょに遊びたいと言ったから」
と供述し、無理強いしたわけではないと訴えたが、聞き入れられなかった。
陽菜は身体的には何事もなく、親元へ帰ってきた。
だが、その後の陽菜は変わってしまった。身近にいたほたるには、それがよくわかっている。
ふとしたきっかけで、火が点いたように泣き出したり、暗いところに入ると震えが止まらなくなったりした。
関谷亮二の罪は重い。
ほたるはそう思っている。
どんな事情があったにせよ、無垢な幼い子どもの心に、深い傷を負わせた事実に変わりはない。
おそらく、勇樹の口ぶりからすると、関谷は連れ回し事件のことを、あとになって深く反省していたのだろう。
陽菜だって、そんな関谷のことを知れば、許す気になったかもしれない。
だが、それは叶わぬことだ。
もう、陽菜はいないのだ。
陽菜は一昨年の冬、病死している。
病名は知らない。陽菜は連れ回り事件の翌年、遠くへ引っ越していった。それから陽菜とは一度も会っていない。
一昨年亡くなったのを知ったのは、陽菜の家族と付き合いを続けていた陽菜の家の大家が、ほたるに教えてくれたからだ。
――あんたが小さいとき、いっしょに遊んでいた女の子がいたでしょ。ちょっとぼやっとした子。かわいそうに。亡くなったのよ。まだ四十にもならないっていうのに。
大家の話だけでは、陽菜の病気が事件と関係があったのかはわからない。
おそらくないだろう。
「陽菜は亡くなったよ」
ほたるは告げた。
「知ってる。関谷の話を聞いたあと、陽菜の話も聞いてみようと思って、陽菜に連絡を取ろうと思ったんだ。陽菜は引越しちゃっただろ、誰も連絡先を知らなくて苦労したよ。千佳って憶えてるか? 学校の近くの文房具店の娘。あいつが陽菜の転校先の学校を憶えてた。それで、当時の担任の及川先生のツテを頼りに探し当てた」
「陽菜と話したのか?」
「いや、もう、亡くなってたよ」
陽菜はどんな最期だったのだろう。
結婚はしていたのか。
子どもはいたのか。
ぼんやりしたところのある少女だったが、素直で気持ちの優しい子だった。自分の知らない陽菜の人生が、しあわせだったことを願う。
「ここから近いところにあったんだよな」
勇樹の声に、ほたるは我に返った。
「陽菜が関口亮二といっしょにいるのが見つかった家」
それは、ほたるが陽菜とよく遊んだ空き家だった。
神社の脇の細い道を、川のほうへ行ったところ。
この鉄工所からは、神社の杜があるせいで見えない。
竹林に隠れるように建っていた家だった。竹林の横は、倒れた古い墓石が三つほど転がっている墓地だった。畑の中の、忘れられたような一画だった。
なぜ、関谷はあの空家に陽菜を連れて行ったのだろう。関谷はあの空家の存在を知っていたのだろうか。
ほたるは勇樹を見つめ返した。
勇樹の目が光る。
「あの空き家、今はなくなってるね」
勇樹は見に行ったのか。
「取り壊されたのは、もうずいぶん前だよ」
ほたるが鉄工所をここに開いた六年前には、廃屋と化していた建物は取り壊され、竹林とともに更地にされ、どこかの会社が倉庫を建てていた。
それも今はなくなって、ただの空き地になり、秋になるとススキの原になる。
「関谷は言い続けていた。あそこで見つかった男を殺したのは、自分じゃないと」
カタカタとエアコンの風の音が続いている。
勇樹はじっとほたるを見つめ続ける。
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