ほたる

popurinn

第1話

 取引先に納品した帰り、岩田ほたるはいつもの道を通った。

 取引先は町の中心部にあり、ほたるの鉄工所ははずれにある。

 

 町のはずれに行くには、川を渡る。

 川は濃尾平野を流れる一級河川で、今日も平らな水面が、橋の上から見えた。


 川を渡り、ほたるは畑の中の一本道に進んだ。

 のどかな道だ。

 両側には畑が続き、平らな道は、べったりと夕陽に覆われている。陽の光は強いが、どこかさびしげに見える。

 もう、夏も終わりだ。


 八幡神社の杜が見えてきた。

 一本道は神社を過ぎたところで緩やかに曲がり、鉄工所の茶色い屋根と、その向こうにある煙突が見えてくる。


 スピードを緩め始めたとき、鉄工所の手前に人がいるのに気づいた。


 男だった。ちょっと小太りだが、太っているというよりは年相応の威厳があるふうに見える。


 ――あれは。

 ほたるは口の中だけで呟いた。


 知った顔、懐かしい顔だ。十数年、いや、もっと忘れていた顔だ。

 夕焼けに眩しそうに目を細め、よおと言うように、男が手を上げた。

 

 やっぱりそうだ。中学まで同じ学校に通った、波多野勇樹はたのゆうき


 鉄工所の横に車を止め、ほたるは首に巻いていたタオルを取った。それから、汗もかいていないのに、握り締めたタオルで顔全体を拭った。


「元気そうだな」


 勇樹は昔と同じように、かすれた声で言った。四十になった今も、それだけは変わらないようだ。


「なんだよ、突然」

「悪いな。さっき、電話はしたんだけど」

と、勇樹は鉄工所の看板を見上げた。

 ずっと会っていない同級生の携帯の電話番号を知るはずはない。勇樹は鉄工所のほうにかけたのだろう。それなら、出なかったはずだ。ほたるは一人で仕事をしている。


「ま、入れよ」

 鉄工所の入口のドアに手をかけながら、ほたるは素っ気ない言い方になった。


                  ★


 勇樹は昔と雰囲気が変わった。

 笑顔は変わっていなかったが、醸し出している何かが変わったのだ。

 いっしょの学校だったのは中学までで、それから勇樹は県外の高校へ進んだ。そして進学先は関東だったか、関西だったか。

 

 表から建物の中に入ると、表の眩しさのせいで、中はいっそう暗く見えた。

 蛍光灯のスイッチを入れたとき、勇樹が入ってきた。



 作業場の奥にある事務所まで進み、ほたるはエアコンを点けた。

 澱んだ室内に、あまり涼しいとも言えない風が吹き始める。


「お茶ぐらいしか出せないよ」

 部屋の隅に置いた冷蔵庫の前にしゃがんで、ほたるは中を覗いた。朝に作った麦茶がまだある。

 足元に並べてある溶接や金属の洗浄に使う薬剤のストックのボトルを、ほたるは足でどかした。

 ほたるの鉄工所では、注文に応じて様々な仕事をするため、いろんな種類の薬剤を買い溜めている。危険な薬剤が多いから、作業場ではなく、事務スペースに置いている。


「お構いなく。ほんと、悪いな、突然」

 勇樹はそう言うと、静かにスチール椅子に腰かけた。キイイッと、椅子の脚が鳴る。


 麦茶をグラスに入れて出し、ほたるも椅子に腰掛けた。

 かすかに、カタカタとエアコンの風が震える音がした。いつもは気にならない音が、勇樹と自分の間で、やけに大きく響く。


「ほんとに静かだな」

 ゆっくり首をめぐらせて、勇樹は部屋の中を見回した。

 部屋はなんとなく埃っぽくて、エアコンのせいだけではなく寒々しい。作業場と事務所の仕切りには、腰から上に窓がつけられていて、作業場が見渡せるようになっている。

 蛍光灯の弱々しい光に、生き物のようにプレス機や盤台が浮かび上がっている。


「子どもの頃からこの辺りは静かなところだったけど、変わってなくてびっくりしたよ」

「何年ぶりだ?」

「親の家は市内にまだあるからな。盆や正月には帰ってきてはいるけど、この辺りには、三十年ぐらい来てないよ」


 ここは、ほたるや勇樹の通った小学校の校区ではあるが、畑ばかりの民家の少ない場所だった。ほたるや勇樹が育った集落は、川向うにある。


 その集落はいまでもあるが、昔とは様変わりしてしまった。商店街は寂れ、まわりの家々にも空き家が目立つ。

 昔、ほたるの父親が鉄工所をやっていたのは、集落にある自宅の一階だった。ほたるが中学になるまで、家族は鉄工所の二階に住んでいた。

 


「勇樹のところの親父さんは元気なのか」

 ほたるは訊いた。昔、勇樹の家は、ほたるの家の路地の先にあった。

「もう、死んだよ」

「――そうか」

 

 勇樹の親父さんは、いい意味でも悪い意味でも町内の名物親父だった。町内で困った人がいると、すすんで手助けをする。その反面、揉め事を大きくもした。

 何の仕事をしていたのだったか。

 酒飲みで、いつも赤ら顔だった。昼間からよく見かけたから、おそらく働いていなかったんじゃないか。

 おばさんは近所の蕎麦屋を手伝っていた。

 そのおばさんの稼ぎだけではとうてい足りなかっただろうから、勇樹の家が貧しいのは、子ども心にもわかっていた。活発で成績もよく、みんなのリーダー的存在だった勇樹が、悔しい思いをしていたのも。

 

 今、目の前に現れた勇樹は、そんな昔の面影はない。顔つきも着ているものも、垢抜けていてこざっぱりしている。

 

 自分の安全靴に目を落としたとき、勇樹が声を上げた。

「結婚はしてないらしいな」

 

 ここに来る前に、勇樹は別の同級生にも会ったのかもしれない。子どもの頃と同じ場所で暮らしている同級生を、ほたるは数人知っている。全員、顔を思い浮かべられる。全員、妻帯し、自分の両親と同居している。


「ずっとここで鉄工所をやってるのか?」

「ああ。いや、六年前からだ。自宅を売ってここに移ってきた」

「どうしてこの場所に?」

 ほたるは勇樹から目をそらした。勇樹はなぜ、そんなことを訊くのだろう。


「凛さんは――元気にしてるの」

 勇樹はそう言ってから、ちょっと眩しそうに、目を細めた。


 凛は、三歳年上のほたるの姉だ。勇樹は昔、凛が大好きだった。


「結婚して仙台にいるよ。子どもが二人」

「しあわせなんだ」

「ああ、穏やかに暮らしてるよ」

 そう答えたものの、ほたるは凛と連絡を取り合っているわけではなかった。母の葬式以来、会っていない。

 それでいいと、ほたるは思っている。凛には、昔を引きずらず生きて欲しい。


「で、要は何なんだ?」

 話題を変えるつもりで、ほたるは言った。


 勇樹が昔の友達を懐かしがって逢いに来たとは思えなかった。

 もしそうなら、それなりの手順があるだろう。地元に残っている誰か別の同級生を誘って飲み会を企画するとか、数年に一回開かれているらしい同窓会に顔を出すとか。

 

 まあ、どちらにせよ、そんな段取りでは、再会は叶わなかっただろう。ほたるは同窓会には出ないし、同級生の誰かが個人的に声をかけてくれても断る。


「医者になったんだって?」

 勇樹は出世したと、同級生の誰かに聞いた。

「ああ。しがない勤務医だけどね」

「なんの先生なんだ?」

「外科だ」

 そう言うと、勇樹は真剣な目でほたるを見つめた。


「総合病院に勤めてるんだ。だから、いろんな患者が来る。先月、ある患者を診た。もう余命僅かだったんだが」

 話の矛先がわからないまま、ほたるは耳を傾ける。


「その患者、関谷せきたにりょう)だった」


「関谷――亮二?」


 ほたるはゆっくりと繰り返すと、そのまま勇樹から視線を外した。どう反応すべきなのか、唐突すぎてわからない。


「忘れてないだろ?」

 ほたるは膝の上で組んだ、自分のごつごつした手の甲を見た。


「俺は忘れてないよ。この名前、忘れられるはずがない。おまえだって、そうだろ?」

 

 ずっと頭の中から締め出してきた名前だ。

 何年も何年も締め出してきて、いつのまにか埃をかぶり、見えなくなった名前だ。


「関谷は刑期を終えて、保護司の紹介で見つけたアパートで一人暮らしをしていた。病気が見つかったときはもう手遅れでね。腫瘍を取る手術は受けたんだが、結局助からなかった」


 こんな話は聞きたくない。


 そう思うのに、勇樹はほたるを逃がさなかった。昔と変わらない誠実そうな目で、ほたるを見つめ続ける。


「関谷は話してくれた」

「え」

と、ほたるは顔を上げた。勇樹の視線にぶつかる。


「あの事件について訊いたんだ。俺がの友達だったと明かしてね。そしたら」


「そしたら?」


「あの日のことを話してくれた。やつは最期まで、殺人なんかやっていないと言っていたよ」

 

 関谷は、裁判の間中、殺人の罪だけは認めなかった。

 幼児連れ去りは認めても、人殺しだけはしていないと言い続けた。

 

 

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