第3話 彼女のとねこの気配
その日の夜、遼は少しだけ遅くまで職場に残っていた。
明日のケース会議の資料を見直しながら、ふと顔を上げると、静かなフロアに小さな気配が残っているのに気づいた。
「麻衣さん、まだいたの?」
パーテーションの奥から、麻衣が少し驚いたように顔を出した。
「すみません、もう少しだけ記録をまとめてて…」
「無理しないで。もう定時過ぎてるよ」
時計はすでに19時を回っていた。若手の西川も内藤も、ベテランの高木もすでに帰っている。事務所に残っているのは、遼と麻衣の二人だけだった。
「今日、午後の利用者さんの対応でちょっと悩んじゃって…。書き出してたら、なんかまとまらなくなって」
麻衣の声は、どこか申し訳なさそうだった。
「明日でもいいんじゃない?それ、僕が引き継いで見るよ」
「……ありがとうございます。でも、今日のうちに少し整理しておきたくて」
遼はうなずきながら近づき、麻衣の画面を軽く覗いた。記録ソフトには、短い文がいくつか書かれては消された跡が残っていた。
「じゃあ、少しだけ話そうか。どうしても引っかかってるなら」
麻衣は少しほっとしたように、うなずいた。
「ありがとうございます」
その後、10分ほど簡単に意見を交わし、麻衣はファイルをまとめて席を立った。
「お先に失礼します」
「気をつけてね」
エントランスの自動ドアが閉まる音を最後に、事務所には完全な静寂が訪れた。
遼は椅子の背にもたれ、深く息を吐いた。残っていた書類に目を通すため、再びモニターに向かう。蛍光灯の白い光だけが机の上を照らしていた。
空調の低い音と、パソコンのファンの回転音。誰もいない空間で、タイピングの音だけが自分の存在を確かめてくれる。こんな時間は嫌いではなかった。けれど、なぜか今夜は、ひときわ音がよく響く気がした。
30分ほどしてすべての資料に目を通し終えると、遼は静かにパソコンを閉じた。デスクの上に手を置いたまま、しばらくそのまま動かなかった。
帰り道、アスファルトが雨上がりのように少し湿っている。誰かの自転車の音が遠くで響き、街灯の下には、夜風に揺れる木の影が細長く伸びていた。風は冷たいが、どこか湿った春の匂いを含んでいる。
ビルの隙間を抜けると、コンビニの灯りが静かに浮かんで見えた。カフェラテでも買おうかと立ち止まったが、ポケットに手を入れたまま、何も買わずに通り過ぎた。
麻衣はどんな気持ちで相談を切り出してきたのだろう。あれはあくまで仕事の話。けれど、言葉の選び方やタイミングに、少しだけ迷いのようなものが感じられた。自分の気のせいかもしれない。それでも、そうした“かもしれない”に、人の感情は揺れるものだ。
家に帰ると、モカが玄関で小さく鳴いた。しっぽを揺らしながら、遼の足元を一周する。ラテはリビングの奥、ソファの陰でじっとしていた。
「ただいま」
声をかけると、モカがしっぽを一度だけ振る。それだけのやりとりが、遼には十分だった。
妻はキッチンで何かを温めていた。電子レンジの回転音と湯気の立つ音。顔を合わせて、特に何も言葉を交わさず、そのままいつもの夜が始まる。
「ごはん、もう少しでできるよ」
「うん、ありがとう」
遼はコートを脱ぎ、モカの頭をひと撫でしてソファに腰を下ろす。スマホをテーブルに置いたが、特に通知は来ていなかった。
テレビをつける気にもならず、カーテン越しに見える夜の気配をぼんやりと眺める。
こうして日々は過ぎていく。穏やかで、変わり映えしなくて、でもそれなりに満たされている。そう思いたい気持ちと、本当にそうなのかという問いが、心の中でぶつかり合う。
麻衣と話していたときの一瞬の空気感が、ふと、昔の記憶を呼び起こす。学生時代、サークルの後輩が、言いかけてやめた言葉。気にするほどでもなかったのに、なぜか何度も思い出してしまったこと。あのときも、こんな夜だった気がする。
相談を受けただけ。そう思えば簡単なはずなのに、なぜか心の奥に、うっすらと熱が残っていた。
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