第2話 数字と人のあいだ
事業所の朝は、いつも少し早い。
外はまだひんやりしていて、吐く息がわずかに白い。遼はネックウォーマーを外しながら、自動ドアを通って事務所に入った。時計は7時50分を指している。まだ誰もいない空間に電気をつけると、夜の名残がふっと後ろへ引いていくようだった。
カーテンを開け、コーヒーメーカーに水を注ぎながら、薄い陽の光を確認する。机に置かれたスケジュール表を確認し、今日の訪問先をひとつひとつ頭の中でなぞる。メールの受信フォルダには、昨夜のうちに届いた報告書や市役所からの連絡も混じっていた。
遼はこの仕事が嫌いではなかった。むしろ、合っているとさえ思っている。福祉の現場は、きれいごとだけではやっていけない。だが、それでも、誰かの「できた」に出会える瞬間がある。そんなとき、心の底から報われる気がする。
8時15分を過ぎると、職員たちがぽつぽつと出勤してきた。
高木は無言でうなずき、パソコンの電源を入れる。前職でも10年ほど福祉経験があり、落ち着いた雰囲気と確かな手際で場の空気を整えてくれる存在だ。ただ、その分だけ他人に深入りしない距離感も持ち合わせている。
麻衣がドアを開けて入ってくる。「おはようございます」と軽く頭を下げて、カバンを机の横に置く。彼女は入社して3年目。真面目で、少し不器用なところもあるが、誠実に仕事に向き合っている。遼の言葉をよく聞き、必要なときには短くても芯のある返答をくれる。
若手の西川と内藤も、慌ただしくバッグを下ろしてファイルを広げ始める。2人とも実地経験が浅く、まだ緊張が手に残っているような動きだが、そこに誠意は見える。
「朝礼、始めます」
8時半ぴったりに声をかけ、遼はホワイトボードの前に立った。今日の支援予定や連絡事項を確認し、それぞれのスケジュールに目を通す。
高木は単独訪問1件、麻衣は2件。西川と内藤はそれぞれ同行支援と軽作業支援。遼自身は午後に家庭訪問と市役所との連携調整が控えている。情報共有を終えると、職員たちはそれぞれ準備に取りかかった。朝の小さなバタつきが、事業所に今日のリズムを与えていく。
午前中の支援先は、ASD(自閉スペクトラム症)の診断を受けた20代の青年だった。買い物支援の中で、いつもより少しだけ会話が弾んだ。レジ袋を手渡したとき、その青年が小さな声で「ありがとう」と言った。遼は驚くふりをせず、当たり前のようにうなずいて「どういたしまして」とだけ返した。
それでも心の奥では、そっと拳を握っていた。何度も通ったこのルートで、初めて交わされた自然な言葉。それだけで、今日はいい日になる気がした。
車に戻ると、麻衣が助手席で静かにシートベルトを締めた。そして、ふとつぶやいた。
「……支援って、思ったよりずっと静かなものですね」
遼はミラー越しに彼女の横顔を見る。麻衣は窓の外を眺めていた。
「そうかもな。でも、その静かさが、たぶん大事なんだと思う」
麻衣は少し笑って、小さくうなずいた。
午後、事務所に戻ると、上司の原口がふらりと近づいてきた。表情は穏やかだが、声のトーンには芯がある。
「今月の新規利用者数が、ちょっと伸び悩んでるみたいだね」
遼は「はい」とだけ答える。責められているわけではない。けれど、その言葉の奥に、数字を意識して動けというメッセージがあるのは明らかだった。
椅子に腰を下ろし、コーヒーをひと口飲む。
スケジュール帳に「ありがとう」と記す代わりに、青年の名前の横に丸印をつけた。
その記憶が、今日一日を少しだけあたたかくしていた。
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