うみのこえ

しろめしめじ

第1話 起

 夕暮れ時。いや、濃混色に染まりつつある空の領域から察するに逢魔が時に移ろうまでの僅かな狭間と言った感じだろうか。

 打ち寄せる波に昼間のきらめきは無く、かろうじて白く浮かび上がるそれは、スクリーントーンで自己主張を抑えた遠くの風景の様に、 朧げな点描画の背景に呑み込まれている。

 誰もいない、人気の失せた海岸。

 否。

 いる。

 一人だけ。

 波打ち際。踝まで素足を打ち返す波に沈め、佇む人影。

 セーラー服姿の少女。

 長い黒髪。白い肌が、光量の乏しい空間に恐ろしく際立って浮かんでいる。

 波の白に対しては、疎かな態度の闇の粒子も、彼女の肌は特別扱いなのか、迫り来る濃紺色の時を一時的に退けているかのように見える。

 彼女は憂いに満ちた表情を浮かべながら、闇と同化し始めた水平線を、じっと見つめている。

 何か物思いにふけっているのか、微動だにしない。ただ明らかなのは、その表情には、触れたものが瞬時に凍てついてしまう程の悲哀の情念が込められていた。

 声を掛けてみようか―—そう思った矢先の事だった。

 舌が、動かなかった。

 それは、まるで蝋石の様にごろんと転がったままで、言葉を紡ぐ機能を完全に阻害していた。

 本能が警鐘を鳴らし、俺に彼女との接触を制しているのだ。

 そして。

 俺は気付いた。彼女の体に纏わり付く、無数の黒い影の存在に。 

 不意に、彼女はゆっくり振り向いた。

 思わずたじろぐ俺に、優しく微笑み掛けて来る。

「何を、しているの? 」

 俺は、強張った唇を無理矢理引き剥がしながら、彼女に問い掛けた。

「海の声を聴いているんです・・・ここで亡くなった人々の、無念の思いを」

 彼女はそう答えると、再び悲しような表情を浮かべながら、海をじっと見つめた。

 遠くで、何か聞こえる。

 何だろう。

 そうだ、これは――。






 俺は枕元のスマホに手を伸ばし、鳴り響くアラームを解除した。

 また、あの夢か・・・。

 ここの所、同じ夢ばかり見ている。

 何なのだろう――いったい。

「おおい、飯行こうぜ」

 早朝からハイテンションな呼び声とドアを叩く音に、俺はのそのそとベッドから這い出した。

 スマホ時計を見ると六時半。

 予定通りだ。奴は、いつも寸分の狂いもなく決まった時刻に訪れる。

「待ってくれ、今行くから」

 俺は慌ててパジャマ代わりのよれよれTシャツと短パンを脱ぎ捨て、其れよりかは少しマシなTシャツに首を通し、黒のジャージを履くと部屋の外に出た。

 ドアの外には、スマホを構いながら佇む熊の様な体格の男が佇んでした。

「川上、悪いな。いつも待たせて」

「いいよ、気にすんな。それより早く行こうぜ。おばちゃん達が待っている」

 そう言いながら歩き出す川上の腹が、ぐぐうと盛大に唸り声を上げた。

 こいつ、この勢いだと、おばちゃん達を食べかねんな。

 俺は人知れずほくそ笑みながら、川上の後を追った。

 俺の生活拠点は、大学付属の海洋研究所にある学生寮の一室。

 寮には一号館と二号館があり、一号館には大学院生や独身の技術員が寝泊まりし、 大学四年の俺達は二号館で生活している。

 施設的には二号館の方が新しくて快適なのだが、食堂や浴場が一号館にある為、面倒な事に、いちいちそちらに向かわなくてはならなかった。

 何故面倒化と言うと、一号館は入り江の対岸にあり、そちらに向かうには百メートル程の橋を渡らなくてはならない。それ故に、多くの学生が朝はぎりぎりまで寝ていたいという願望に負けて、朝食を抜くパターンが多く、全学生十八人中、朝食を食べに来るのは俺と川上だけだった。

 一号棟には、通いの賄のおばさんが二人いるのだが、俺達が朝ご飯を美味しそうに食べるのがうれしいんだそうだ。

「これから、どっと観光客が押し寄せて来るんだろうな」

 俺は、既に熱く焼けつつあるアスファルトの路面に視線を投げ掛けた。

 ここからそんなに離れていないところに、綺麗な砂浜のビーチがあるし、それ以外にも温泉街や観光地がひしめき合って並んでいる。

 是からの時期、早朝でもこの道は結構いっぱいになるほどだ。

「まあな」

 と、素っ気なく答える川上。彼は観光云々には関心がない。それ故にか、観光客を見ても決して妬んだりしない聖人のような男だ。

 まあ単に、こだわりがないと言うか。

 俺が車道から何気に目線を写した時の事だった。

 視界の片隅に、何か映った。

 セーラー服。

 長い黒髪。

 白い肌。

 あの子だ。

 毎晩、夢の中に出て来る、あの・・・。

 橋の手摺に腰掛けて、行き交う車をじっと見据えている。

 俺の視線に気付いたのか、彼女はちらりとこちらを見ると、再び何事も無かったかのように、車道に視線を戻した。

 俺は無関心を装いながら、彼女の前を通り過ぎる。

 他人の空似なのかもしれない。

 運命的な出会い何て、そうそうあるものじゃない。

 所詮、ラノベの世界位なものだ。

 でも。

 俺は何気に振り返り、彼女の姿を追った。

 いない。

 そんなはずは・・・。

 俺は立ち止まり、彼女が佇んでいた場所を凝視した。

「どうした? 」

 川上が訝しげに俺を見る。

「あ、何でもない」

 俺は奴にそう答えると、踵を返した。

「さっきさ、そこに女の子いたよな? 」

 俺の言葉に、川上は首を傾げた。

「いや、いなかったけど――何だよ朝っぱらから、脅かすんじゃねえよ。幽霊でも見たのか? 」

 川上は懐疑な目線を俺に向けた。

「おい、ひょっとして、ここって出るのか? 」

 俺はあえて彼に突っ込む。

 奴のその表情――何か知ってると見た。

「おまえ、知らなかったのか!? 」

 川上は目を丸く見開くと、俺に語り始めた。


  

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