ウエディング・ベルは鳴らないで
クニシマ
◆◇◆
高級ホテルは照明ひとつとっても隅々にまで気を配っていて、トイレでさえ重厚な雰囲気を醸しているから参ってしまう。妙に薄暗い洗面所で手を洗いながらふと顔を上げると、鏡に映った自分の姿を直視する形になった。至るところの皮膚にやたらと皺が目立っている。もう還暦の年なのだから仕方がないとは思う。しかしわずかに憂鬱な気にもなる。視線を逸らそうとすると今度は首元のネクタイの色が目についた。赤い。なるべく落ち着いた色彩を選んだつもりだったが、それでも赤いものは赤い。私のような暗い男にはとてもじゃないが似合わない色である。けれどこれもやっぱり仕方がないことだ。私が今日このホテルを訪れている理由である小学校の同窓会、そのドレス・コードが、何か赤いものを身につけることなのだった。
人が入ってくる気配があったので、私は鏡を眺めるのをやめ、乾燥機で手の水気を払って、足早にトイレを後にした。同窓会の会場である大ホールに戻ると、そこかしこにそれぞれの赤を身につけた老年の男女がひしめき合っている。なんだかうんざりする。年寄りをこんなに集めて何が楽しいのかとつい考えてしまうが、自分だってわざわざこうして集まってきているうちのひとりであるということにすぐ思い至り、さらにうんざりする。ため息をつきそうになったとき、ふいに背後から「バラちゃん」と声をかけられた。
「よくこんなに集まったもんだよね」
慎ちゃんは感慨深げに目を細めて会場を見渡し、それから私のネクタイに目をとめて「一緒、一緒」と自分の首元を指し示した。彼のネクタイは確かに私のものと似た色合いをしていて、しかし私よりもずっとよく似合っている。慎ちゃんは赤が似合う男だ。小学生の頃、彼は背が高くて学年で一番足が速くて、成績は少し悪かったけれど教師にも好かれていて、明るくて優しくて交友関係が広くて、そうしてどんくさくてチビの私をも友達のうちのひとりに加えてくれたのだった。
そんな慎ちゃんは三十年以上前に同じく小学校の同級生でかわいい容姿の人気者だった
「慎ちゃん変わんないねえ。マーちゃんはどう? 元気してんの」
「ああ、うん」慎ちゃんは表情を変えないまま二、三度まばたきをした。「マー子はねえ、先月ね」そして胸ポケットから一枚の小さな写真を取り出し、そっと視線を落とす。「死んじゃったんだよね。」
なんだか唐突なことで、私はしばらく呆然としていた。そうしている間に、気がつけばごま塩頭の男はどこかへ去っていた。慎ちゃんはずっと写真を眺めている。写真の中では笑顔の藤代聖子と慎ちゃんが互いを見つめ合っていて、それはおそらくここ数年以内に撮られたものなのだろうけれど、ふたりとも小学生の頃とほとんど変わらず若々しく写っていた。
私が何も言えないでいると、慎ちゃんは「マー子もね、みんなに会いたがってたんだけど」とつぶやいた。よくよく彼の格好に目を向けてみると、白の目立つ頭髪は整えきれておらず、顎にはやや髭が残り、背広はくたびれて皺が寄っている。私が見ていることに気づいたのか、男やもめになんとやら、と自嘲する彼の顔には、疲労の色がひどく濃く出ているようだった。
「まあ、今日は楽しい会だから」
あんまりこんなこと話してもしょうがないね、と、慎ちゃんはやけにきっぱりそう言って「いつぶりだっけね」と私を見やる。
「いつだったかな」
本当はよく覚えていたのだが、私は少し言い淀んだ。
「……慎ちゃんたちの結婚式、呼んでもらったでしょう、もしかしたらあれが最後だったかも」
「へえ、そっか。そう、そんなになるんだ、もう」慎ちゃんは懐かしげな表情を浮かべる。「そういえば、披露宴だっけ、あれはね。楽しかったね」
あれ、というのは、披露宴の余興にて、私を含む彼の古い友人である男たちで行った悪ふざけのことだ。祝福のキスと称して順繰りに彼の首筋やら鼻の頭やらにキスを浴びせていって、最後に私が彼の唇にキスをして、新婦である藤代聖子に思いきり頬をはたかれる、という、今思えばあまりにもばかばかしいけれど、そんなことで会場はおおいに盛り上がったのだった。あれは笑った笑った、と慎ちゃんは微笑む。
「あれは……なんで僕だったんだろうね」
私が苦笑すると、慎ちゃんは意外そうに目を丸くした。
「あれ、バラちゃんがやりたいって言ったんじゃなかったの」
「違うよっ」必要以上に慌てた、大袈裟な声が出た。「やらされたんだよ、あれは」
「そうだったの。バラちゃん、マー子のこと好きだったからやりたがったんだと思ってた」
慎ちゃんは当たり前のことを言うような顔をしているから、思わず「えっ」と頓狂な音が口の端から漏れる。私は藤代聖子のことを好きだったのだっけか。昔のことだから忘れているのだろうか。そう、私と藤代聖子との間に交流があったのはずっと昔のことだ。記憶を辿ってみると、切れ切れながらも鮮やかに思い出される光景があった。
小学六年生のある冬の午後のことだ。町には雪が積もっていて、私と慎ちゃんと藤代聖子、それから数人の友人たちは、様々な大きさの雪だるまを作っては道のありとあらゆる場所に置くのを繰り返しながらのろのろと下校していた。小学校の近所には小さな教会があって、その前を通りかかったとき、庭に小規模な人だかりができていて、その中心には華やかに着飾った新郎新婦がいるのが見えて、白い衣装に雪の白が反射し合ってただ眩しく、そこに鐘が鳴っていた、そんな気がする。あのとき、十二歳のあのとき、そういえば私はただ漠然と結婚について考えて、そして貧弱な想像力のもと、十字架の下でキスをする自分の姿をぼんやりと思い描いたような、けれどその相手は、どうだろう、藤代聖子だっただろうか。
慎ちゃんは黙り込んだ私をよそに再び手元へ目を落とし、写真の中で笑い合っている自分と藤代聖子を眺めている。突然、ああそうだった、と思う。そうだった。あのとき芽を出していたのは、あまりにも空しいことだからずっと前にもうすっかり忘れようと決めて、そして事実忘れていた、ああ、思い出してしまった。私がこの歳になるまで独り身で、両親や親戚や友人や知人の誰から何を言われようとそれをやめようという気になどまるでならなかったのは、必要がないからだと思っていたけれども違った、とっくのとうにすべて失っていたからだ。私が好きだったのは目の前の彼だった。
慎ちゃんは写真をじっと見ていて、きっと藤代聖子との日々を思い出しているのだろう。そうやって彼女を亡くしてからの毎日を過ごしているのだろう。どうしてだろうか。どうして私は今、こんなところで、こんな思いを掘り起こしてしまったのだろうか。写真の中の彼の笑顔は藤代聖子にのみ向けられたもので、決してこちらを向いてはいない。写真の中の藤代聖子の笑顔は確かに麗しく、それでいてどこか勝ち誇っているようにも見える。慎ちゃん、と私は彼を呼ぶ。
「今って、どこ住んでるの」
彼はこの会場からほど近い町の名前を答えた。ああ偶然、と私は言った。
「今度、仕事の都合でそのあたりに引っ越すことになってるから、そのうち遊びに行ってもいいかな。マーちゃんにお線香もあげたいし」
その言葉に彼は驚いたような顔をして、けれどすぐに「もちろん」と微笑んだ。私も笑ってみせた。それはまったくの嘘だったが、本当のことにすればいいのだ、簡単なことだ。
彼は顔を上げ、写真をゆっくりと胸ポケットにしまった。それだけのことだけれども、それだけのことで、なんだか私はほんのわずかに晴れやかな気分になったのだった。
ウエディング・ベルは鳴らないで クニシマ @yt66
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