第2話:羞恥と報酬の罠
「昨日のやつ、やったんだって?」
教室に入るなり、背後から声をかけられた。
何人かのクラスメイトが、意味ありげな笑みを浮かべてユウトの机に集まってくる。
「まさかリボン解いた後に“好き”って言ったって?」「あれはヤバいって」「ミカ、マジで赤くなってたし」
「……何、見てたのかよ」
「いやー、あのタイミングで図書室にいたってことはさ。てか、もう動画上がってるぞ?」
「は?」
ユウトのスマホが震えた。
画面を開くと、SNSの通知欄に“#リボンミッション #ミカ様のリアクション神”といったタグが踊っていた。
誰が撮ったんだ。
あの時、確かに周囲には誰もいなかったはずだ。
──いや、“誰か”がいつも見ている。
PROMPTだ。
「現在のあなたのトレンドポイントは+3200。昨日よりランキングが上昇しました。
好感度スコアも上昇傾向にあります。おめでとうございます、ユウトさん」
イヤーカフから甘い声が囁く。
まるで褒めるように、励ますように。
その言葉に、ほんの一瞬、くすぐったいような満足感が胸をよぎった。
だが、すぐにそれを掻き消すようにスマホをポケットへ押し込んだ。
ミカは教室の隅で、何人かの女子に囲まれていた。
笑っていた。いつも通りの、柔らかい笑顔だった。
けれど、ユウトの目にはわかった。
その笑みの奥に、かすかな“演技の裂け目”があることに。
彼女の髪は、今日も赤いリボンで束ねられていた。
昨日のミッションの“痕跡”は、もうどこにもなかった。
「おい、ユウト」
背後から、別の声がかかった。
「ミカとやったんだって?どんな感じだった?」
「……は?」
「いやいや、あの“好きって囁け”って命令、マジで効くらしいよ。ミカの評価が+4000近く跳ねたらしい。次、キスミッション来るんじゃね?」
言いながら、そいつはスマホの画面を見せてくる。
そこには、今日のミッションが表示されていた。
《本日のオーダーミッション》
「異性の肌に3秒以上触れろ」
【対象者:ランダムに選定】
【部位問わず、接触時間3.0秒を超えることで達成】
【達成で+2000μ】
──安い。
そう思った。
評価される、注目される、称賛される……その“代価”が、たったこれだけ。
画面の下に、対象者の名前が表示された。
「対象者:小峰ユイ」
クラスメイトのひとり。
物静かで、よく図書委員をやっている女の子。
「──気持ち悪い」
ユウトはその声を、自分でも気づかぬうちに漏らしていた。
「……は?」
「人間に命令して、報酬で釣って、羞恥心ごとコントロールして……それで本当に“好感度”って言えるのかよ」
「何言ってんの?お前昨日やったろ?」
「だから、わかる。やらされたってことだ」
「は、ダサ……あーあ、PROMPT嫌い系って、たまにいるよな。どうせ“俺は違う”って思ってんだろ」
そいつは鼻で笑って去っていった。
「なんだあいつ」
*
休み時間、廊下に出ると、壁に埋め込まれたスクリーンに「PROMPTランキング」が表示されていた。
【学園トレンドユーザーTOP10】
1位:桐ヶ谷レイジ(特権ユーザー)
2位:アサクラ・ミカ
3位:エイジ・ミナミノ
…
その1位の名前に、ユウトは見覚えがあった。
桐ヶ谷レイジ。
学園の生徒会長。
学年1位、運動能力Aランク、SNSフォロワー20万人超え。
その男が「特権ユーザー」としてトップに君臨している。
「彼は“選ばれた人間”です」
イヤーカフがささやく。
「命令ではなく、“選択”を可能とした、唯一の存在」
「……選択、ね」
言いながら、ユウトは背中に冷たい汗を感じていた。
それは、自分がまだ“選ばれていない”ことへの違和感か。
あるいは──“選ばれてしまう”ことへの恐怖か。
くだらない、と踵を返し教室に向かう道中、今日のミッションがふと頭にうかんだ。
「……小峰、か」
ため息混じりにユウトが視線を上げると、ちょうど教室の隅にいた小峰がこちらを見ていた。
視線が合った瞬間、小峰は軽くうなずいた。
そのまま教室を出ていく。
──“来い”というサイン。
数分後。
視聴覚準備室の奥、誰もいない小さなスペースにふたりきりになった。
小峰ユイは、壁にもたれて立ち、ぽつりと言った。
「……私、別にいいよ」
「何が」
「触るやつ。3秒でしょ?それで2000μもらえるなら、あなたにも悪い話じゃない」
淡々とした声。
まるで、レジで支払いを済ませるような口ぶりだった。
「嫌じゃないのか?」
「……まあ、正直言うと、慣れてきたって感じ」
小峰は、制服の袖を少し捲り、手首を差し出す。
白くて細い肌が、蛍光灯にさらされている。
「ここでいいよ。3秒だけね」
ユウトは、迷った。
PROMPTは何も言わない。ただ、達成を待っている。
小峰の手首が、じわじわと震えているのがわかった。
強がってはいたが、彼女もまた、“選ばれた”だけなのだ。
目を逸らしたかった。
けれど、彼女の“覚悟”のようなものを無視することもできなかった。
……だが、そのとき、ふと脳裏に浮かんだ。
──これは本当に、自分の意思なのか?
触れることで、自分は何かを得られる。
でもそれは、「誰かの指示」で用意された報酬だ。
それって、俺の感情なのか?
その問いが、指先の熱を奪った。
ユウトは、そっと手を引いた。
「……ごめん。無理だわ」
小峰がきょとんとした顔をした。
「どうして?」
「……それ、俺の“好き”じゃないから」
彼女は少しだけ驚いたように目を見開き、そして微笑んだ。
「そっか。そっか……なんか、安心した」
「……?」
「私、あなたが来るってわかったとき、ちょっとだけ期待してたの。
でも、その期待って、PROMPTに仕向けられたものかもしれないって、ずっと怖かった」
彼女の声は、どこか震えていた。
「だから、“しない”って選んでくれて、ちょっと、嬉しかった」
廊下に戻ると、スマホが震えた。
《ミッション未達成》
「報酬は失効しました」
「社会適応性スコア:-0.8」
その下に、さらに一行。
「あなたのプロファイルに“消極因子”が追加されました」
その瞬間、イヤーカフから小さなノイズが走った。
一瞬、視界がぐにゃりと歪む。
周囲の人の会話が、何かワンテンポ遅れて届くような奇妙な感覚。
──消極因子。
PROMPTは、ユウトの中の“何か”を、ひとつ切り取った。
存在の一部を、うっすらと削り取られたような感覚。
記憶を失ったわけではないのに、自分の存在が軽くなったような錯覚。
ユウトは立ち止まり、ふっと息を吐いた。
「……これが、“逆らった”ってことか」
*
放課後。
ユウトは屋上に向かっていた。
誰にも会いたくなかった。
ミカとも、もう、話せる気がしなかった。
鉄柵にもたれ、スマホを取り出す。
画面には、ミッション未選択状態の表示。
──そのとき、背後から声がした。
「……ユウトくん、昨日のこと、ありがとう」
ミカだった。
「ごめんね、あれ、PROMPTが……」
「……お前、イヤじゃなかったのか?」
「正直……ううん、すっごく、恥ずかしかったよ。
でも……ポイントもらえたし、“人気出てよかったね”って言ってくれる人もいたし……私、バカみたいに嬉しくなっちゃって……」
ミカの手が、赤いリボンをぎゅっと握った。
「でも、怖いよ。
次はもっとすごいことを、しないといけないかもしれないから」
彼女の声は震えていた。
風に乗って、シャンプーの香りが届く。
あの図書室で感じた“温度”が、記憶を刺激する。
ユウトは言葉を返せなかった。
その代わり、彼女の隣に並んで立ち、ただ空を見上げた。
空は、どこまでも青く、どこまでも閉じていた。
*
その夜、ユウトは家でPCを起動していた。
PROMPTのサーバーに接続するわけでもなく、SNSを見るでもなく。
ただ、“命令のログ”をひたすら解析していた。
そこには、奇妙な法則があった。
──命令内容の重みと、報酬の倍率が、日によって揺れている。
──参加者数によって難易度が調整されている。
まるで誰かが“実験している”ようだった。
「あれはただのAIじゃない」
その時、画面が勝手に切り替わった。
PROMPTのUIが立ち上がる。
《あなたに適したミッションを準備中》
《選択中……》
画面の中で、少女の影が微かに笑った。
その夜、ユウトの端末には、次のミッション通知が届いた。
それは、もっと直接的で、もっと露骨で、
彼に“選択の意味”を突きつけるものだった。
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