第2話 冷たいキス

 不思議と抵抗はなかった。俺は身を水鳥川さんに預けて、静かに目を閉じた。

 彼女の息、体温や鼓動が、唇を通して伝わってくる。


 華奢なそれの感覚は鮮明に浮き彫りになり、水鳥川さんのものと思われるラベンダーの香りが漂ってくる。


 目眩めまいがしそうになる、恋人じゃない女の子の香り。

 それが少し背徳感を煽る。いけないことをしているような後ろめたさが心の中でくすぶっていた。


 唇と唇が触れ合うだけの、淡いキス。それが永遠にも続くように感じてしまった。

 時間がまるで止まったかのように、唇が触れ合うその一点だけが静止していた。

 

 戸惑いがなかったといえば、嘘になる。

 けれど、水鳥川さんのとのキスは心地がよかった。

 

 全身が沸騰したように熱い。脳がとろけそうなくらい甘い。

 そして――驚くほど、

 

 やがて、水鳥川さんはゆっくり離れた。その顔はほんのりだが、赤に染まっていた。

 

「やはり、冷たいね」


 彼女のその言葉に、胸がチクリと反応した。


「でも、心地が良かった……」


 水鳥川さんが透き通るような声でそう言うと、静かに目を閉じた。


「リハビリ、頑張ろうね」



 ベッドの上で大の字になったまま、俺は茫然と天井を見つめていた。


「冷たい、か……」


 それは俺が水鳥川さんにも感じたことだった。唇から確かな温度が染み込んでくる。

 けれど、物足りなさがあった。まるで、芯だけが雪のようにひんやりとしていた。


 冷たくて、切なくて、もどかしい。


 そんな名状したがい感触だった。けれど、俺にはこれ以上を求める権利も資格もない。


 そこに“好き”はなかった。でも、嫌じゃなかった。

 その矛盾した気持ちが胸の奥を去来する。


 勘違いはしない。


 水鳥川さんは俺のことなんとも思っていない。それだけははっきりとキスとともに伝わってきた。

 彼女を慕う男子はたくさんいる。俺を選ぶ理由なんてないのだから。


 ただ、一つ驚いたのは、水鳥川さんに彼氏がいたこと。

 いつも無機質な表情をたたえている彼女が恋焦がれ、振られることで傷つくなんて、正直想像できなかった。


 いや、それは俺の押しつけなのかもしれない。水鳥川さんだって一人の人間。恋だってする。

 彼女に恋人がいないと思うのは、単なる押しつけにすぎないのだ。


 そう考えると、俺は驚くほど水鳥川さんに興味がなかった。

 どこか遠い世界の住人だと、関わろうとも関われるとも思っていなかった。


 そんな彼女とキスをした。


 その事実だけが、残っていた……。




 翌日。


 制服に着替えて、朝食を済ませると、俺は家を後にした。

 いまだに慣れない、のいない通学路。


 俺の学校――古坂高校は家から歩いて30分のところにあるから、沙耶と付き合う前はいつも自転車で通学していた。


 沙耶が迎えに来てくれるようになってからは、二人で並んで話しながら登校していた。

 でも今は、沙耶はもういない。だから俺は、元通り、自転車でひとり学校へ向かっている。


 教室に着いた時、水鳥川さんはすでに席に座っている。

 挨拶しようと思ったけど、別に友達じゃないから、遠慮しておいた。


 自分の席に座り、机の中から教科書を取り出そうとした時に、一通の紙切れが紛れ込んであった。


『昼休みに屋上まで来て』


 相変わらず差出人の名前はないが、筆跡は水鳥川さんのものだった。


 わざわざこうやって伝えてくるのは、学校ではいつも通り、他人のままでってことだよな。

 それは俺にもありがたい提案だった。水鳥川さんと仲良くしているところを見られたら、色々と厄介そうだし、なにより、俺たちのしていることがバレそうで怖い。


 この距離感がなぜか俺にとって心地が良かったのだ。



 四限が終わって、俺は先に教室を出て屋上へ向かっていた。

 しばらくすると、水鳥川さんの姿が見えた。


 昼休みの屋上は誰も使っていないから、今の俺たちには、それがちょうどよかった。


「おはよう」


「もう昼だけどね」


 水鳥川さんは地面にシーツを敷いて、体育座りで腰を下ろす。

 そして、その隣をぽんぽんと叩いた。


「座っていいの?」


「いいよ」


 相変わらず口数の少ない水鳥川さんだが、それは俺にとってはありがたかった。

 俺も口が達者な人間じゃないし、むしろ何を言っていいのか分からない時が多々あるから、水鳥川さんも同じで少し安心した。


 水鳥川さんが敷いたシーツの上に、遠慮がちに座ると、彼女は軽く頷いて持ってきた弁当箱を開いた。

 そこには卵焼きやたこさんウィンナーが入っていて、女の子らしい弁当だった。


 だが、箸を持ち上げたところで、水鳥川さんが何かを思い出したように声を発した。


「榊くんって、卵の匂いとか大丈夫?」


「うん、平気」


「なら、良かった」


「それって?」


「これからキス、するもの」


 淡々と告げられたその言葉に、なぜかほっこりした。

 そういうことを気にする一面があるなんて、思わなかったのだから。


「水鳥川さんは……あんぱんの味、気にしたりする?」


「ううん、しない」


 それだけ会話を交わして、俺と水鳥川さんは黙々とご飯を食べていた。

 沈黙が続いているけど、それがどこか心地が良かった。

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