第2話 冷たいキス
不思議と抵抗はなかった。俺は身を水鳥川さんに預けて、静かに目を閉じた。
彼女の息、体温や鼓動が、唇を通して伝わってくる。
華奢なそれの感覚は鮮明に浮き彫りになり、水鳥川さんのものと思われるラベンダーの香りが漂ってくる。
それが少し背徳感を煽る。いけないことをしているような後ろめたさが心の中で
唇と唇が触れ合うだけの、淡いキス。それが永遠にも続くように感じてしまった。
時間がまるで止まったかのように、唇が触れ合うその一点だけが静止していた。
戸惑いがなかったといえば、嘘になる。
けれど、水鳥川さんのとのキスは心地がよかった。
全身が沸騰したように熱い。脳が
そして――驚くほど、
やがて、水鳥川さんはゆっくり離れた。その顔はほんのりだが、赤に染まっていた。
「やはり、冷たいね」
彼女のその言葉に、胸がチクリと反応した。
「でも、心地が良かった……」
水鳥川さんが透き通るような声でそう言うと、静かに目を閉じた。
「リハビリ、頑張ろうね」
◇
ベッドの上で大の字になったまま、俺は茫然と天井を見つめていた。
「冷たい、か……」
それは俺が水鳥川さんにも感じたことだった。唇から確かな温度が染み込んでくる。
けれど、物足りなさがあった。まるで、芯だけが雪のようにひんやりとしていた。
冷たくて、切なくて、もどかしい。
そんな名状したがい感触だった。けれど、俺にはこれ以上を求める権利も資格もない。
そこに“好き”はなかった。でも、嫌じゃなかった。
その矛盾した気持ちが胸の奥を去来する。
勘違いはしない。
水鳥川さんは俺のことなんとも思っていない。それだけははっきりとキスとともに伝わってきた。
彼女を慕う男子はたくさんいる。俺を選ぶ理由なんてないのだから。
ただ、一つ驚いたのは、水鳥川さんに彼氏がいたこと。
いつも無機質な表情を
いや、それは俺の押しつけなのかもしれない。水鳥川さんだって一人の人間。恋だってする。
彼女に恋人がいないと思うのは、単なる押しつけにすぎないのだ。
そう考えると、俺は驚くほど水鳥川さんに興味がなかった。
どこか遠い世界の住人だと、関わろうとも関われるとも思っていなかった。
そんな彼女とキスをした。
その事実だけが、残っていた……。
翌日。
制服に着替えて、朝食を済ませると、俺は家を後にした。
いまだに慣れない、
俺の学校――古坂高校は家から歩いて30分のところにあるから、沙耶と付き合う前はいつも自転車で通学していた。
沙耶が迎えに来てくれるようになってからは、二人で並んで話しながら登校していた。
でも今は、沙耶はもういない。だから俺は、元通り、自転車でひとり学校へ向かっている。
教室に着いた時、水鳥川さんはすでに席に座っている。
挨拶しようと思ったけど、別に友達じゃないから、遠慮しておいた。
自分の席に座り、机の中から教科書を取り出そうとした時に、一通の紙切れが紛れ込んであった。
『昼休みに屋上まで来て』
相変わらず差出人の名前はないが、筆跡は水鳥川さんのものだった。
わざわざこうやって伝えてくるのは、学校ではいつも通り、他人のままでってことだよな。
それは俺にもありがたい提案だった。水鳥川さんと仲良くしているところを見られたら、色々と厄介そうだし、なにより、俺たちのしていることがバレそうで怖い。
この距離感がなぜか俺にとって心地が良かったのだ。
四限が終わって、俺は先に教室を出て屋上へ向かっていた。
しばらくすると、水鳥川さんの姿が見えた。
昼休みの屋上は誰も使っていないから、今の俺たちには、それがちょうどよかった。
「おはよう」
「もう昼だけどね」
水鳥川さんは地面にシーツを敷いて、体育座りで腰を下ろす。
そして、その隣をぽんぽんと叩いた。
「座っていいの?」
「いいよ」
相変わらず口数の少ない水鳥川さんだが、それは俺にとってはありがたかった。
俺も口が達者な人間じゃないし、むしろ何を言っていいのか分からない時が多々あるから、水鳥川さんも同じで少し安心した。
水鳥川さんが敷いたシーツの上に、遠慮がちに座ると、彼女は軽く頷いて持ってきた弁当箱を開いた。
そこには卵焼きやたこさんウィンナーが入っていて、女の子らしい弁当だった。
だが、箸を持ち上げたところで、水鳥川さんが何かを思い出したように声を発した。
「榊くんって、卵の匂いとか大丈夫?」
「うん、平気」
「なら、良かった」
「それって?」
「これからキス、するもの」
淡々と告げられたその言葉に、なぜかほっこりした。
そういうことを気にする一面があるなんて、思わなかったのだから。
「水鳥川さんは……あんぱんの味、気にしたりする?」
「ううん、しない」
それだけ会話を交わして、俺と水鳥川さんは黙々とご飯を食べていた。
沈黙が続いているけど、それがどこか心地が良かった。
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