第3話 他人の温度


 あれから、昼休みに、水鳥川さんと屋上でキスの練習をするのは日課になっていた。


 相変わらず、水鳥川さんが俺を見つけると、シーツを敷いてそこに座る。

 その隣をぽんぽんと叩く。すると、俺もそこに腰を下ろす。


 少しだけ離れているその距離感が心地が良かった。

 水鳥川さんが弁当箱を取り出すのを見て、俺もパンの包装を破るように開く。


 ただ、弁当の中身を確認すると、彼女はいつも聞いてくる。


「今日はハンバーグだけど、いいかな?」


「俺も今日はクリームパンだけど、いい?」


「クリーム、嫌いじゃない」


「俺も平気」


 ちょっとした確認作業。けれど、それはすごく大事なものだった。

 相手に不快感を与えないようにするための最低限の礼節。


 それを守ることによって、俺たちのキスはあくまで練習――ほんとの恋人とのキスじゃないって覚えていられる。


 弁当を食べ終えた水鳥川さんは、弁当箱を丁寧に布で包み終えると、静かにこちらへ顔を向ける。


 そして――唇を合わせる。


 相変わらずの唇と唇が軽く触れ合うだけの淡いキス。

 でも、それがすごく心地が良かった。


 水鳥川さんの唇は驚くほど柔らかくて、少しでも力を込めれば、そっと沈み込んでしまいそうだった。

 だから、俺はいつも自分から動かず、ただ水鳥川さんが離れるのを待つ。


 一回のキスは大体15秒くらいで、短くもなく長くもない。


 その間、俺は静かに水鳥川さんの体温を感じ取ろうとする。

 けれど、唇から伝わってくる熱の中にほんのりと雪のような冷たさが交じる。


 そして、それは俺だけじゃなく――


「……冷たい」


 水鳥川さんにも言えることだった。


 相変わらず、俺のキスは冷たいらしい。


「でも、焦らなくても、いいよ」


 水鳥川さんは慰めるように言ってくるが、それはまるで自分に言い聞かせているようでもあった。


 もちろん、俺は焦っていない。

 

 一朝一夕でキスの温度が変わるなんて思っていない。

 それに、俺にはもうがいないのだから。


 昼休みが終わると、俺と水鳥川さんは他人に戻る。


 挨拶することもなく、会話を交わすこともない。

 まるで“キスなんてしていない”かのように。


 水鳥川さんとキスするようになってから、気づいたことがある。

 彼女の友達もそう多くはない。


 いつも淡々と無機質な表情を浮かべているからか、自ら水鳥川さんに声をかける人はいない。

 それも高校二年の夏ともなると、人間関係が固まってなおさら新しい関わりを持つのがいっそう難しくなる。


 でも、水鳥川さんは寂しそうには見えなかった。

 いや、それは俺が彼女のことをまだ知らないからなのかもしれない。


 水鳥川さんが寂しい時にどんな表情をするのかは、俺には分からない。

 今まで知ろうともしなかったツケが回ってきたのだと思った。


 キスしてる時に、水鳥川さんが何を考えているのか、俺には少しだけ、知りたくなった。




 校長先生の話はやたら長かった。


 「古坂高校の学生としての自覚」とか、「夏休みは有意義に」とか、どうせ誰も聞いていないことを延々と続ける校長先生のことを、俺は少し尊敬していた。


 終業式が終わると、生徒たちは「今日はどこ行く?」とか、「夏休み一緒に遊ぼうよ」とかでざわついている。


 俺はというと、踵を返してそのまま校門に向かおうとしていた。


 だが――そこには先客がいた。


 校門の前にたたずんでいる水鳥川さんは同級生だけでなく、みんなの視線を釘付けにしていた。


 あくまで他人。そう、他人だ。


 俺は水鳥川さんに気づいてないかのように彼女の傍を通りかかろうとした――その時。


 袖を軽く引かれたので振り返ると、水鳥川さんが丸めた紙をそっと俺の手のひらに置いた。


 そしてそのまま、振り向きもせず校門から出ていった。




 自分の部屋に戻ると、俺は水鳥川さんに渡された紙を開いて中身を確認する。

 そこに書かれていたのは、彼女の携帯の電話番号だった。


 少し迷ったが、一度だけ水鳥川さんに電話をかけることにした。


 ピーピーピー。

 と流れる呼び出し音は、まるで自分の心臓の音のようだった。


 恋人以外の女の子に電話するのは初めてで、どこか落ち着かなかった。


「もしもし」


 やがて、電話から透き通るような声が聞こえると、俺は声が上ずらないように気をつけながらゆっくりと応えた。


「榊です……どうも」


「……水鳥川です」


 それからしばしの沈黙があった後、水鳥川さんは再び口を開いた。


「今日の夜、空いてる?」


「特に用事は……ないと思う」


「A駅の近くのファミレス、知ってる?」


「うん」


「一緒にご飯、食べよう?」


 水鳥川さんの声は微かに震えていた。


 電話だから、俺と同じように緊張しているのだろうか。


「分かった」


 俺には彼女の提案を断る理由はない。

 夏休みはもともと毎日ゲームをして過ごすつもりだったので、少し気が楽になった。


「じゃ、19時で」


「うん」


 返事をすると、電話は静かに切れた。


 気を遣うこともなく、気を遣われることもない。

 この感覚はどこか心地が良かった。


「19時か……少し寝よう」


 ベッドに仰向けになり、電話の後に残ったわずかな余韻をそのままに、俺はそっと目を閉じた。

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