ピザソースは知っている
冷蔵庫の中段、奥のほう。
少しホコリをかぶった赤いフタの瓶。
それは、いつもあった。まるで空気みたいに、当たり前のように。
「またピザトースト? 飽きないね」
そんな口を叩きながらも彼は、私の焼いたピザトーストをもぐもぐ頬張っている。
「飽きないよ。だって、これが好きなんだもん」
私はそう言って、彼の表情をこっそり見る。
美味しそうに食べてくれるその顔が好きだった。少し大きな前歯、食べるたびに動く頬。
私の作る、ただのピザトーストが好きだって言ってくれる人。
——ピザソースは、いつも彼が買ってきた。
「また切らしてると思ってさ。買っといた」
「えっ、ありがと」
「だってさ、ないと、あの味にならないでしょ?」
いつの間にか、うちの冷蔵庫にはその赤いフタの瓶が常備されるようになった。
***
春の終わり、彼がいなくなった。
「仕事、東京になっちゃってさ」
「……そっか」
「会いにくるよ、絶対。離れても大丈夫だって信じてるから」
そう言う彼の声はいつも通り優しかった。でも、二人の未来は思ってたより静かに変わっていった。
次第にLINEの通知が減っていき、声が、ぬくもりが、日常から抜け落ちていった。
気づけば、冷蔵庫の中のピザソースは使われることもなくなっていた。
***
今日、ふと冷蔵庫の中にいるあの赤いフタの瓶を手に取った。賞味期限は、もうとうに切れていた。
あれからどれくらいの時間が経ったんだろうと思いつつも、なんとなく、捨てることはできなかった。
あの日と同じように、食パンにピザソースを塗って、チーズとピーマン、ウィンナーをのせて、トースターに入れる。
チン、という軽い音。
あの頃と同じ、トーストとチーズの焼ける香ばしい匂いが部屋に広がった。
ひと口、かじる。
あの頃と同じ味。
涙が、じわりと滲んだ。
「……バカだなあ、私」
あんなに時間が経っても変わらない気持ち。
まだ好きだった。彼も、あの時間も。この味も。
ピザソースの味は、思い出の味。
失ったものはもう元には戻らないけど、ピザトーストの味は、あの頃の私をずっと温めてくれる。
冷蔵庫から、空になった瓶を取り出す。
ありがとう、とつぶやいて、そっとゴミ袋へ。
そして、私は新しい瓶を買いにいく。
いつも決めて選んでいた赤いフタのピザソース。
今度は、自分のためだけに。
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