第18話 「おやすみなさい、の向こう側で」 (七海視点)

エントランスのオートロックが閉まる音を背に、七海はゆっくりと階段を上がっていった。

ヒールの音が静かに響くたびに、胸の奥に広がっていた余韻が少しずつ、現実に変わっていく。


扉を閉めた瞬間、背中から壁にもたれかかる。

心臓の音がうるさい。

酔いのせいだけじゃない。

指先に残る、彼の体温。

唇に触れた、あの確かな感触。


(……夢じゃないんだ)


及川部長と、キスをした。

求めたのは自分だった。

袖を引いたのも、自分だった。


それでも彼は、ためらわずに応えてくれた。

あの一瞬、彼のすべてが、自分だけを見てくれていたと確かに思えた。


(幸せだった)


たった数秒。

でも、人生で一番、心が満たされた瞬間だった。


けれど――それは、すぐに終わった。


ポケットの中で震えるスマホ。

何度も、何度も鳴る着信音。

画面は見ていない。

内容も聞いていない。

でも、それが誰からかは、わかってしまった。


“あの人の居場所は、もう決まっている”


その現実が、あのやわらかなキスを、残酷なほどくっきりと輪郭づけた。


ほんの少しでいい、長くいたかった。

「よかったら、お茶でも」と言いかけた声は、あの振動にかき消された。

でも、それでよかったのかもしれない。


七海は部屋に入り、バッグを投げ出すと、そのままソファに沈み込んだ。


スマホには何も表示されていない。

“部長”からも、“及川さん”からも。


けれど、もうそれを求める気にはなれなかった。


キスは、彼の本心だったかもしれない。

でも、それと同じくらいに、彼は“戻るべき場所”に引き戻されていった。

だからこそ、自分が何かを言ってしまえば、それはただのわがままになってしまう。


(これ以上、近づいてはいけない)


思い出せば思い出すほど、胸が痛くなった。

でも、不思議と涙は出なかった。


それは、後悔ではなかったからだ。

間違っていたとも思わなかった。

ただ――終わりを悟っただけだった。


“おやすみなさい”


それは、自分への言葉でもあった。


もうこれ以上、夢を見ないように。

静かに、今日という一日を終わらせるための、祈りのような一言だった。

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