第17話 「触れてしまえば、もう戻れない」 (及川視点)

「最後まで面倒見すぎですよ、部長」


そう言って笑った後輩の肩を軽く叩きながら、及川はようやくソファから腰を上げた。

グラスを置き、コートを手に取る。気づけば店内には数人しか残っていなかった。


時刻は深夜0時を回っていた。

盛り上がりすぎた飲み会。終電の時間もとっくに過ぎていた。


「タクシー、呼びましょうか?」


七海が控えめに声をかけてくる。

その表情に疲れは見えるのに、どこか離れがたいような気配もあった。


「……そうだね。寒いし、今日は送るよ。乗っていこう」


反射のように出たその言葉は、思っていた以上に自然だった。


タクシーの後部座席。

七海は無防備に助手席側へ乗り込んでしまい、結果的に及川がその隣に座ることになった。


(……ミスったな)


そう思ったのは、距離の近さに気づいた瞬間だった。

狭い空間。夜の匂い。アルコールのせいなのか、彼女の髪に残る香水が近く感じられる。


「お疲れさまでした、今日は……」


「うん、ありがとう。ずっといてくれて、助かったよ」


それだけの会話だった。

けれど、そのまま言葉は途切れ、沈黙がふたりのあいだに降りてきた。


走るタクシーの振動が、肩先をほんのわずかに揺らす。

そのとき、彼女の指先が、自分の手の甲に触れた。


偶然――かもしれない。

けれど、彼女はその指を引かなかった。

及川も、引けなかった。


(……どうして、こんなことに)


七海の自宅が近づき、タクシーが停車した。

「すみません」と告げようとしたが、奥に座らせたせいで彼女を降ろすには、自分が先に出るしかない。


仕方なく外に出てドアを開けたそのとき――


彼女の手が、そっと及川のコートの袖を引いた。


振り返ると、七海が見上げていた。

少し潤んだ瞳、言葉を探しているような表情。

その姿に、及川は“部下”の彼女ではなく、“ひとりの女性”を見ていた。


次の瞬間、自分でも気づかないまま、唇が重なっていた。


触れた唇。柔らかく、確かだった。

七海も目を閉じて、それを受け入れてくれた。

ただの気の迷いでも、酔いのせいでもない。

たしかな“意志”を持ったキスだった。


(……だめだ)


そう思ったのは、唇を離した瞬間だった。

ポケットの中のスマホが震え始めた。


何度も。何度も。


確認しなくてもわかる。

それは、妻からだった。


「……よかったら、お茶でも」


そう続けようとした七海の声を、

その音がやさしくかき消していった。


七海は、何も言わなかった。

ただ目を伏せて、ほんの少し微笑んでから、こう言った。


「今日は、楽しかったです。また食事に連れて行ってください」


そして、「おやすみなさい」と告げ、

マンションのドアに吸い込まれるように姿を消した。


残された及川は、その場から一歩も動けなかった。


触れてしまった。

戻れないところまで、来てしまったのだ。

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