第18話 騎士の魂を故郷へ

登場人物


クロノス・アビサル:時を司る悪神。冷徹だが、知的好奇心は旺盛。

アーデン・グレゴリー・晴明(せいめい): バー「クロノス」のマスター。元賢者。

アーデン・ヴァレンタイン・翔(しょう):晴明の孫。15歳。共和国の議員見習い。

白狐稲荷(びゃっこいなり):商売繁盛と豊穣をもたらす狐の姿をした土地神。

雷電大明神(らいでんだいみょうじん):雷を司る山間の小さな村「雷鳴村」の土地神。

瀬織津姫(せおつひめ):大河の守護神。水流・浄化・災厄払いの力を持つ。自然の秩序を重んじる誇り高い神。



プロローグ



神話の時代、神々が戦ったと伝えられる霊峰の麓。その広大な野に、現代日本ではあり得ないほどの密度の神気が満ちていた。天には雷雲が渦巻き、地には清らかな水の結界が張り巡らされ、そして大気そのものが妖しい幻惑の香りを帯びている。四柱の神々と一人の賢者は、ただ静かにその時を待っていた。


彼らの視線の先、空間が陽炎のように歪む。その中心から、漆黒の騎士、セバスチャンが姿を現した。彼の瞳はもはや理性を失い、ただ一点、狂おしいほどの忠誠心だけを宿して燃え上がっている。その視線の先にあるのは、白狐稲荷が作り出した、かつての主君、狂王ヴォルフガング・ルートヴィヒ四世の幻影だった。


『おお、我が王! このセバスチャン、ただいま馳せ参じました!』


亡霊の咆哮が、世界を揺るがす。彼の周囲の時間が軋み、風景がぐにゃりと歪み始めた。彼がその場に存在するだけで、この世界の理が悲鳴を上げているのだ。

作戦開始の合図は、不要だった。神々は、それぞれの役割を果たすべく、一斉に動いた。



第一幕:神々の捕縛陣



「さあ、姫様、出番ですわよ!」

白狐稲荷の甲高い声が響く。彼女が扇子を一振りすると、王の幻影が、まるでセバスチャンから逃げるように、するりと後方へ移動した。


『お待ちくだされ、我が王!』

セバスチャンが幻影を追って一歩踏み出した、その瞬間。

「彼の者の足元を、清き流れで縛します!」

瀬織津姫の凛とした声が響き渡る。大地から無数の水の触手が湧き上がり、セバスチャンの足に絡みついた。さらに、彼の周囲を巨大な水のドームが瞬時に形成し、完全に閉じ込めてしまう。


『な、なんだこれは!? 小賢しい!』

セバスチャンは、水の牢獄の中で暴れ狂う。彼が剣を振るうたび、時の力がほとばしり、水のドームが激しく揺らめき、亀裂が走る。だが、その亀裂はすぐに清らかな水で塞がれてしまう。瀬織津姫の浄化の力が、彼の狂気の力を上回っていた。


「今だ! 天の裁きを喰らうがいい、狂える騎士よ!」

天頂で待ち構えていた雷電大明神が、その手に握る巨大な槌を振り下ろす。天を裂いて、まばゆいばかりの雷の槍が、水の牢獄めがけて突き刺さった。


ゴウッ!と、水が沸騰する凄まじい音。雷撃を受けたセバスチャンの動きが、明らかに鈍る。亡霊といえど、神の雷の直撃は堪えるようだ。だが、彼はそれでも膝をつかない。幻の王の姿を見つめ、忠義の心だけでその場に立ち続けていた。

「なんという執念よ…」

雷神が、思わず感嘆の声を漏らす。


神々の猛攻が、セバスチャンの動きを完全に封じ込めた。時間は、わずか。だが、それで十分だった。



第二幕:時の回廊



「今です、アビサル様!」

晴明の鋭い声が飛ぶ。彼は、懐から取り出した古びた杯を、アビサルと共に強く握りしめていた。

「翔! 聞こえるか! 今だ!」


晴明の呼びかけに応じ、杯がまばゆい光を放つ。それと同時に、はるか異世界――アーデン共和国の執務室でもまた、翔が同じ輝きを放つ宝玉を手に、儀式を開始していた。

『聞こえています、おじい様! こちらの準備も万端です!』


「ククク…面白い。実に面白いではないか! 二つの世界の法則を、この我輩が捻じ曲げ、繋ぎ合わせてやろう!」

アビサルは、歓喜の表情で天を仰いだ。彼の全身から、これまでとは比較にならないほどの膨大な神気が立ち上る。

「開け! 時の回廊!」


アビサルが叫ぶと、セバスチャンが捕らわれている水の牢獄の目の前に、空間そのものが裂け、眩い光の渦巻くトンネルが出現した。それは、異なる二つの世界を繋ぐ、禁断の道。


「そして、これが仕上げだ! 我が呪い、今こそ解き放たん!」

アビサルは、その光のトンネル――時の回廊の入り口に手をかざす。回廊の入り口が、まるで荘厳な扉のように形を変えていく。時の扉だ。その向こうには、セバスチャンが本来いるべき、懐かしい故郷の世界の空気が流れていた。



第三幕:騎士の帰還



その瞬間、セバスチャンの動きが、ぴたりと止まった。

彼は、自分を誘き寄せていた王の幻影から、そして自分を縛り付けていた神々から目を離し、ただ、目の前に開かれた時の扉を見つめていた。

その瞳に、初めて理性の光が戻る。彼は、全てを理解したのだ。


水の牢獄が解かれ、雷の威光も収まる。自由になったセバスチャンは、しかし、もはや暴れることはなかった。彼は、ゆっくりとアビサルと晴明の方へ向き直ると、背筋を伸ばし、完璧な騎士の礼をした。その動きには、感謝と、そして自らの過ちへの悔恨が込められているように見えた。


彼は、何も語らなかった。だが、その安らかな表情が、全てを物語っていた。

セバスチャンは、自らの意思で、光の中へと歩みを進める。その姿は、一歩進むごとに薄くなり、やがて完全に光の扉の向こうへと消えていった。


時の扉が静かに閉じ、回廊が消え去ると、戦いの痕跡は何もかもが嘘のように消え、霊峰の麓には、ただ穏やかな静寂だけが残された。



エピローグ:残された火種



事件から数週間後。バー「クロノス」には、いつもの日常が戻っていた。

テレビのニュースは、連日世間を騒がせた原因不明の事件や事故が、まるで幻だったかのように終息したと伝えている。人々は、すぐにあの不可解な出来事を忘れ、日常へと戻っていくのだろう。


「…終わりましたな」

晴明は、カウンターでグラスを傾けながら、静かに呟いた。

「フン。我輩にかかれば、この程度のこと。造作もない」

アビサルは憎まれ口を叩きながら、上機嫌で酒を呷っている。自らの手で忠義の魂を救済できたことに、満足しているようだった。


平和な時間が流れる。だが、その静寂を破ったのは、アビサル自身の、何気ない一言だった。

「…そういえば、賢者よ」

「なんでしょうか」

「あの騎士の執念も凄まじかったが、考えてみれば、あの狂王ヴォルフガングの執念も、奴に勝るとも劣らぬものだったはずだ。王の魂は、一体どうなったのだろうな?」


その言葉に、晴明の背筋を、冷たいものが走った。

そうだ。セバスチャンは救われた。だが、彼を狂わせた元凶、あの狂王の魂の行方は、誰も知らない。セバスチャンほどの騎士が、あれほどの執念でこの世界に流れ着いたのだ。ならば、王自身が、同じように……?


「…アビサル様」

晴明の声が、わずかに震える。

「それは、考えないようにしていたのですが」


アビサルは、ニヤリと、神特有の残酷な笑みを浮かべた。

「ククク…どうやら、この世界での退屈しのぎは、まだもう少し、楽しめそうではないか」


晴明は、深い溜息をついた。

嫌な予感しかしない。だが、その予感が当たるであろうことを、彼は確信していた。

二人の神と賢者の戦いは、まだ始まったばかりなのかもしれない。


(バー・クロノスの時間回帰奇譚 完)

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バー・クロノスの時間回帰奇譚 嘉納 明 @akirakano

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