蛍とサイダー

祐里

夜空に半月

 娘二人と、蛍を見に行く約束をした。


「パパ、みかのほにゅうびんももってね。ママはおるすばんなんだからね」

「お、おう」

 当日、出かける直前に長女の春香はるかに言われ、哺乳瓶を忘れていることに気付く。まだ五歳だというのに、しっかりしていて頼もしい。

「みか、くるまでねてていいからね」

 時刻は二十時になろうとしている。確かにまだ二歳の美夏みかにとっては眠い時間帯だ。

「ねーたん」

 美夏の小さな手が、春香の手を握る。

 夜になると涼しいから、汗はかかないだろう。タオルは持っていかなくていいか。

「あ、パパ、タオルも。美夏が好きなやつ」

 玄関で靴に足を入れようとした瞬間、妻に差し出され、受け取ろうとしてつんのめってしまった。


 妻と春香に笑われながら玄関を出て、車に乗り込む。しがないサラリーマンの俺が奮発して軽自動車から買い替えた、ホンダ・ステップワゴン。

「はい、すわって」

 春香が美夏を後部座席のチャイルドシートに座らせ、自分もジュニアシートに腰を下ろす。シートベルト着用まで完璧だ。よくできた娘で感心してしまう。

「パパぁ、いいよー」

「うん。じゃあ出発だ」

 俺は車を走らせる。フロントガラス越しに、少しぼやけた半月。音楽は明るいディズニーソング。

「ほたる、ほんとにひかる?」

「光るよ。動画でも見ただろ?」

「どうがはぁ、うそかもしれないよぉ」

 嘘、って。妻だな、そんなことを春香に言うのは。しかし、この世の中ではそういう警戒心も必要なのだろう。

「光るのは本当だよ。ああ、美夏は寝ちゃったか」

「うん、ほにゅうびんあるから」

 美夏は哺乳瓶をくわえていると安心するようで、黙り込んだと思ったら寝ているということが多い。

「もう二歳だから、哺乳瓶離れしないといけないんだがなぁ」

「でもさ、ないとさ、ゆびしゃぶっちゃうじゃん。しょうがないよ」

「ま、まあ、そうだな」

 五歳児にぼやいて、瞬時に諭される俺。こんなんでいいのか、父親って。

 何とも情けない気分を味わいながら、そして安全運転を心がけながら、俺はステップワゴンを走らせた。


 十五分ほどで目的の駐車場に到着し、娘たちを車から降ろす。美夏はタオルを握りしめているが、それほど機嫌が悪いわけではなさそうだ。

「美夏、まだ眠いだろ。おいで」

 しゃがんで美夏を抱っこしようとしたが、ふるふると首を振られてしまった。

「じぶんであるきたいんだよね」

 美夏は小さくうなずき、ハンドタオルじゃない方の手を春香に預ける。

「そ、そうか」

 広げた腕の行き場を失って視線をさまよわせると、遠くに自販機の光が見える。

「春香、何か飲み物いるか?」

「うん! のどかわいた!」

 自販機まで、美夏の歩調に合わせる。春香は歌を歌っている。なんでCreepy Nutsなんだ。お遊戯会で覚えた歌じゃないのか。

「何がいい?」

「えっとねー、これ!」

 到着した自販機には、小さな虫がいくつかくっついている。そんな中で春香が指差したのは、三ツ矢サイダーのペットボトルだ。

「えええ、これはまだ早いんじゃないか?」

「のめたもん。マックで、コーラ」

「マジ? じゃあ買うけど……本当にいい?」

 真剣な顔でうなずく春香。三ツ矢サイダーのボタンを押し、ゴトン、という音を聞いて取り出し口に手を突っ込み、つるりとしたボトルを春香に見せる。

「蛍見ながら飲もう」

「うん」

 俺は三ツ矢サイダーを片手に持ち、娘たちの姿を確認しながら遊歩道入口と書かれている看板を目指して歩き始める。他にも人がちらほらいるのが見える。仲の良さそうな若いカップルも。おまえらも将来、ステップワゴンとディズニーソングになるんだぞ。


 清流の音の中、夜空には夏の湿気で蒸されたような半月。蛍はふらふらと舞い踊り、明滅を繰り返している。

「わぁ、ひかってる! きれい!」

「な? 光るだろ?」

 春香と美夏の目が蛍を追っている。俺はスマホの明かりを頼りに、二人が急に走り出したりしないか注意しないといけない。だがまずは冷たいうちにと、三ツ矢サイダーの蓋をプシュッと開けた。

「あーっ! のむー!」

「無理しなくていいからな」

「だいじょうぶだしー」

 春香は横でハラハラしている俺などお構いなしにペットボトルを傾ける。そうしてこくこくと二口飲み、ぷはぁと息を吐いた。

「おいしいか?」

「うん」

 真面目な表情になり、また一口。こく、と喉が動いた。

「パパものんで」と渡された俺が少し飲み、返そうとすると「のんでていいよ」と言う。きっと、もういらないということだろう。やはり炭酸はまだ早かったか。

 娘たちは蛍を見ている。

 俺はそんな娘たちを見ている。

 半月は、そんな俺たちを見ている。

「よし、パパが飲んでやるからな」

「うん、いいよ」

 しっかりしていたいお年頃の春香がかわいい。

「ねーたん」と春香の手を握る美夏もかわいい。

 ステップワゴンの、プラチナホワイトの色味は好きだ。

 妻は明るい性格で、俺のドジをいつも笑い飛ばしてくれる。


 半月と蛍に向かって、俺は少しだけ胸を張った。

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蛍とサイダー 祐里 @yukie_miumiu

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