ダンデライオン
ある夏の日のできごと。最高気温は36℃。
僕はマッチングアプリである女と知り合った。
マリンは当時21歳、保育士。
フェミニンでゆるふわ系で男好きのする可憐な容姿。
さっそく連絡先交換をして、デートの約束をとりつけた。
夜になったらどちらかが寝落ちするまで通話。
お互いの距離を詰め過ぎず、かつ離れていかないように。
平塚のららぽーとでウィンドウショッピングした後はビーチで散歩。
幸せな初デートを思い描いていた泡沫と消えた。
そして約束の3日前に連絡が途絶えた。
「連勤だから疲れてるのかな?」
と放っておいたけど前日になっても返信なし。
LINEはブロック、アプリのプロフィールも削除されていた。
1ヶ月やりとりしたトーク履歴だけを残して、マリンは忽然と僕の前から姿を消してしまった。
*
あれから7年が過ぎた。
平塚市の郊外に新興住宅地がある。
区画された分譲地。規格化された建売住宅。
3LDKで2900万円。エントランスには小さな植え込みと2台分の駐車スペースがある。
コンベンショナルな日常はコピーして貼り付けられる。
真四角で色彩の欠いた二階建て。
そこではマッチングアプリで出会って結婚した夫婦が生活を営んでいる。
夫の悟は週に2回、鎌倉市にある建築デザイン事務所まで通勤している。
朝、クリーニングから帰ってきたばかりの清潔で糊の効いたYシャツに袖を通す。
コットンのネクタイを締め、妻にキスをして玄関から外へ出る。
それから悟はブルーのBMW i4に乗って、茅ヶ崎から辻堂に抜ける海岸沿いを走る。
窓から流れ込んでくる潮騒と海の匂いを吸い込む。
サーフボードを抱えビーチクルーザーをサンダルで漕ぐ人々が行き交う。
そのような背景に鮮やかなブルーの車体がよく映える。
マリンは夫が在宅勤務をしている間は家で家事をこなし、パートタイムで週に2回、子どもたちを相手にピアノを教えている。
ピアノ講師といっても大学で専門の教育を修めたわけではない。
小学生の頃から中学を卒業するまで近所のヤマハミュージックスクールに通っていた。
練習も発表会も嫌いではなく、学校ではよく合唱の伴奏を頼まれた。
寿退社してから中古のエレクトーンを買い求め、趣味の延長で近所の子どもたちにレッスンをしている。
あらかじめ渡された譜面を丹念に読み取って、繰り返し練習をすることで指に音を馴染ませる。
即興や教養よりも、予習とコミュニケーションが大切だ。
保育士をやめた後も子どもを相手にしている方がやはり性に合っていた。
サイドデスクにはいくつかのポピュラー音楽の楽譜が載せてある。
小中学生の発表会用にアレンジされた譜面で、マリンの手でおさえるべきポイントにマーカーで印が入っている。
*
悟がオフィスから帰り、連休を前にした金曜日の夜。
冷凍のムール貝をフライパンで炒める。カルディで買った白ワイン。ミート・ソースを絡めたパスタ。
あかりを消した部屋のベッドの上。やわらかな感触と一定の間隔での上下運動。
悟もマリンも即興に富んだグルーヴより、規則性の上に成り立った緩やかな幸福を好んだ。
*
7年前の夏、私は悟と浅草のカフェで出会った。
それは宿命的というよりは計画的で、現実的に織り込まれたものだった。
私はマッチングアプリで幾人かとメッセージをやりとりして、何人かとLINEを交換した。
そのうちの一人と意気投合して、休日のデート相手として選ばれた。
それが悟だった。
ハンサムというよりは質実剛健といった趣で、好感が持てた。
趣味は写真とハイキングで、学生時代は写真部とワンダーフォーゲル部に所属していたらしい。
その時の様子がプロフィールで確認できた。
短くカットされたヘアスタイル。柔和だが力強い一重の目がとてもキュートに見えた。
ちょうど同じ時期にやりとりしていた青年も悪くはなかった。
まじめで問題のないメッセージのやりとり。
読書と映画と音楽が好き。典型的な都内の私立文系大学の男子だった。
メッシュの入ったミディアムロングのヘアスタイルと破れたデニム。
彼は私のタイプではなかった。
振り返ると、悟を選ぶためのいい比較対象として機能したように思う。
ともかく私は悟を候補の相手と決めて、アプリも連絡先も削除した。
浅草駅で悟と待ち合わせ。
しばらく街を散策した後、蔵前駅の近くにあるダンデライオン・チョコレート・ファクトリーカフェという都会的な内装のカフェに立ち寄った。
清潔で洗練された店内で規則正しいサイズにカットされたチョコレート。
苦味・酸味・コクがバランスよく配合されたコーヒー。
五感のマリアージュが現実に影響を及ぼしているかのように、悟とは初対面とは思えないくらい打ち解けることができた。
それから半年後に東京スカイツリーの前でプロポーズされて、私はそれを承諾した。
結婚式は二人の地元である茅ヶ崎の迎賓館で挙げた。
身内だけで行われた小規模なものだったが、SNSにアップした写真は500を超える「いいね」がついた。
そのあとは専門学校を卒業後、5年以上勤めた保育園を退職して、中古の一戸建てに悟と引っ越しを終えて慎ましいながらも幸せな日々を送っている。
*
今朝いつものように玄関まで悟を見送った。ピアノ教室まで時間がある。
簡単にフィアットを洗車しておこうと思い立った。
玄関の横に備え付けられている蛇口にホースを繋げる。
そのときふと庭の小さな花壇に植えたひまわりが蕾をつけているのに気がついた。
ひまわりの陰で、申し訳なさそうに一輪のたんぽぽが花を咲かせていた。
どこからか風が綿毛を運んできたのだろう。
遠慮がちに揺れる小さな花が健気で真摯で儚げに見えた。
風に揺れるたんぽぽが感傷を引き起こすことなんて今までにはなかった。
その姿に私自身を重ねているのかもしれない。
花嫁の二人に一人はマリッジ・ブルーを経験している、とゼクシィで行われたアンケートに書いてあった。
いま私はその時期なのかもしれないな、と思う。
水の勢いを強めにセットして、愛車のウィンドウから埃を洗い流す。
ついでにひまわりにも水をやるつもりが、そのままの強さで放水してしまい花壇から水が溢れた。
溢れた水の流れが収まったとき、たんぽぽはどこかへ流されていってしまっていた。
*
僕は時々夜の星空を見上げる。
星々の位置関係がときに刹那的で一回限りであるのと同じように、我々もまた移ろいゆく存在なのだと思う。
新芽が芽吹いて花を咲かせて結実するのには、日の光や豊かな土壌、外敵から身を守ることが欠かせない。
少しくらいの雨風なら耐えて、タフに育つこともある。
その花の美しさや香りを楽しむためだけに場所を移されて、けっきょく枯れてしまうこともある。
我々がスワイプとタップを有限回数繰り返した先に、必然として辿り着く場所。
いい側面もそうでない側面も合わせて観測する視点に立ちたい。
そんな思いで僕は今日も星空を見上げる。
夜空を横切る流星群が地球のどこかで笑顔を咲かすことを願って。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます