刹那のクロスワード

思い出すのはその唇の感触とまっすぐな目。

君は一方通行に確実に削り取られていく時間の流れを、わずかにスローモーションにする。

どうせすぐに思い出せなくなる。思い出されることもない。大海の一滴ほどのわずかな刹那。


たぶんそれを忘れたくないから、今もこうして文字を並べる。



初めてビビと会ってから1ヶ月ほど経過した。

終わらないように思えた長い夏もほとんど最終局面。

やはり前日に電話をかけた。いつも通りの必要最低限で充分な応対。


ビビとファミマの前で待ち合わせ。


「この間のお礼じゃないけど一緒に食べよ」


そう言って君はいくつかレジの前に並べられた揚げたてのポテトと唐揚げを追加した。

いっしょに飲み物を買って、手を繋いで交差点を渡る。


アスファルトに引かれた白線を跨いであっという間に200メートルの道のりが終わる。

空いている部屋は初めてきたときと同じ小さな部屋。ショートタイムの前金を支払う。


エレベータの中で不意にキスをした。君は驚いたみたいだけど受け入れてくれた。

部屋に入った瞬間に離れていた時間を取り戻すかのように絡み合った。


二人の体はまだ熱を帯びていて、ビビは息が荒くなっていた。

買ってきたドリンクをそれぞれが一気に飲む。


「あっついね。今日はいつもより激しかった」


「どうしてかな?久しぶりに顔を見ることができて興奮したからかもしれない」


「体では興奮しないってことですか?」


「そういう意味じゃないって」


「あはは、冗談だよ」


ほんとはすごく好きなんでしょ、といたずらっぽく言いながら僕の手を君のデリケートな部分へ誘う。

指紋がその起伏を認識するかのようにゆっくりと指を這わせて、その動きを止める。


適当に意味の通る単語を並べ替えて、次に来る文字列を予測してそれを選ぶ。


「ねぇほんとはホテルに入ったら何をしても自由なんだよ」


「何をしても?」


「恋人とするみたいに」


「仮にきみは僕と恋人同士だとしたら、何をしたいだろう」


「うーん、大きな声で言えないことかな」


真っ黒な綺麗な瞳がじっとこちらを見ていた。

こんなに近くでその目を覗き込むと、世界がそっくりそのまま反転して映っている様子がわかる。

目を閉じてほしい。その鏡の世界が霞んでいくように消えていくのが見えた。


閉じられた瞼に口付けをする。君はくすぐったそうに笑う。


「すっかり冷め切ったフライドポテトでも食べよう。時間がなくなるよ」


「たしかに。でもその前にさっとシャワーだけ浴びてこようよ」


落ちている服を拾い集めたり、蛇口を捻ったり、タオルを引っ張り出したり、

日常生活の一部の動作と環境音が空白を埋めるかのように満たしていった。



ビビは電話予約で即時対応可能な出勤表から、ある日突然僕の前に現れた。

君は単なるオキニとか常連とかという関係性だけではなく、ひっそりと僕の心に住み着いた。

ほんの数時間しか顔を合わせていなかったのにも関わらず、僕たちはここには書ききれないくらい多くの言葉を交わした。


でもお互いのことは実はほとんど何も知らない。

住んでいる場所も本当の年齢も名前さえも。

手を繋いで通りを歩いてほとんど距離がゼロになったとしても、

電話番号もSNSアカウントも知らないまま過ぎていった。


僕たちは前もって答えがある空白に、ただ無作為に選んだ言葉を当てはめていただけなのかもしれない。

ちょうど新聞の端に添えられているクロスワード・パズルみたいに。


君の立場からすると幾人もただ通り過ぎていく、サービスを受けにきた一人の客に過ぎなかっただろう。

華奢な姿に似合わない大きなバッグを背負っている姿、よく通る笑い声、あどけない顔と女性らしい体つき、

そして唇の感触と真っ黒な綺麗な瞳を僕は忘れることがなかった。


「今日はありがとう」


「こちらこそ。でもなんだか最後って気がしない。きっとまた会いにきてくれるんでしょ?」


「もちろん。それもできるだけ早く」


エレベータホールで繋いでいた手を離して、ハイタッチをした。

ビビは笑って踵を返した。

その華奢な体には大きすぎるいろいろ詰まったバッグを背負ってどこかに消えてしまった。



その後ビビはどうなったのだろう。

しばらくは出勤表にたまに顔を出していた。

やがて在籍している女の子が激減して、電話はつながらず事実上閉店となった。

空っぽのホームページが今でも残っている。


あらゆる出会いと別れに貴賤はなくて、男と女に定型文も方程式もない。

適当に並べ立てた言葉が、ある時パズルみたいにカチッとはまり動かし難いものとなる。

嘘が真になり、口約束が契約となり、誓いがいつの日か拘束になるように。


言葉だけならどうとでもなる。

それでも感じた一抹の痛みとか喜びとか、

もし忘れないでいられたら、その人にとってそれだけがリアルなのだと思う。


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