トランプの裏側

月の光を覆い隠すように雲が厚くかかった夜だった。


国道の混雑をようやく抜けた後、コンビニに寄ってから家まで帰った。空腹のはずだが食欲が沸かない。

仕方がないので、ポテトチップスの袋を開けて何枚かつまんだ。

喉が渇いていたので、冷凍庫から氷を取り出してグラスにいくつか放り込み、ウィスキーでソーダ割りをつくった。


TVのどのチャンネルからも騒々しい雑音が飛び交っている。

出演者が何かのジョークでけたたましい笑い声をあげて、ビールのコマーシャルに切り替わったところで電源を切った。


表の通りを走る車の走行音。近所の家から漏れ聞こえてくる夕食どきのざわめき。

それらをBGMにグラスを口元へと運んだ。



その日君は、約束の時間を15分ほど過ぎてやってきた。

ショッピングモールの駐車場にバイクを乱雑に停めてから、君が駆け寄ってくる。

早めに家を出たつもりだったんだけど、と悪びれずに言ってのけた。


郊外にある瀟洒な煉瓦造りの一軒家。

雑誌に紹介されたこともある本格的なイタリアン。

平日の昼とはいえ、事前に予約した数組でテーブルは埋まってしまう。

前日に電話をかけてみたところ偶然にも一組キャンセルで空きが出ていた。


僕らは互いの空き時間を縫うようにして、顔を合わせて話をする。

たいていは当たり障りのない日常の一コマ。

何かが変わるというわけではないけれど、口に出して言葉にすることで事象が整理される。

それがきっかけで些細な別の道筋が見えてくる。そういうことってある。


君が職場の店長についてあれこれと熱心に話すのを傾聴した。

時々相槌を打ちながら、その合間にフォークでパスタを口へと運びながら。


デザートはレモンシャーベットにミントが添えられていた。

爽やかな後味に合うように、アイスティをふたつ注文する。


この後は何か予定があるのか、と頃合いを見計らって尋ねる。

3時に宅配便が届くけれど再配達にしてもいい、と君は答える。

いずれにしても”もうひとつのシゴト”があるから5時までには着いていないとね、と言い添える。

車でここの裏にあるモーテルへ行って、そこで適当に時間を潰そう。



比較的空いている幹線道路を走る間、僕たちはあまり口を開かなかった。

雨を降らすかどうか決めかねている、どっちつかずな空模様。

オーディオからは低い音でピアノとチェロのデュエット。ミニマルな伴奏の小作品。

僕は時間が止まったように流れる瞬間が好きだった。


信号が赤から青に変わる。



エレベータホールにあるパネル。

ひとつだけ空いていたミドルクラスの部屋を選んでチェックインする。


「ここは私が払う。だからランチは奢りね」


3Fのランプがほのかに明滅する部屋を目指して、フロアを横切ってドアをあける。


「大してなにもしてないけどなんだか疲れた」


君は仰向けに広いベッドへと四肢を投げ出す。

僕はそこへ覆い被さるようにして、静かに口付けをしてやがてお互いに激しく絡み合う。

僕たちは通り過ぎる日常をあっけなく簡単に見落としていく。


シャワーのお湯が大理石に跳ねる音が、昼間のワイドショウの猥雑な声音に重なる。

有料の缶ビールをひとつ開けて口へ運ぶ。

ひとくち喉を潤してから車を運転してきたことに気づく。残りをぜんぶ流し台へと捨てる。

どうせ大して飲みたかったわけではない。


脳はたまに手抜きをする。

見慣れた景色であればあるほど、そのディティールは指の間からこぼれ落ちていく。


例えば、そうだな。家から会社まで向かうまでの道筋。最寄り駅まででもいい。

それを正確に地図に書き起こすことができるだろうか。


僕はやってみたことがあるけど、うちのアパートから出て最初の信号までの道も正確には思い出せなかった。

ひとつめの角にあるのが左官屋だったのか金物店だったのか、自販機はコカ・コーラの赤か伊藤園のお茶だったか。

ねぇ僕たちは現実をありのままに見ているようで、そうじゃない。ごちゃまぜの記憶の中から都合よく任意の一コマを見繕って、それっぽく並べ替えてるだけなんだ。


ちょうど裏と表の絵柄がまったく違うトランプのカードみたいに。

表はきっちりとした格子の決まりきった退屈な幾何模様。

スペードのクインの隣にはジャックが収まっていると思いたいけれど、引き抜いてみれば冴えないダイヤの3で、クインの隣にはクラブのエースが並んでいる。


この場合トランプは何のメタファーなのだろう。


「なにを考えているの?」


シャワールームから出て、タオルを一枚体に巻きつけた君が興味深そうに尋ねる。

なんでもないよ。なんの意味もない。単なるたとえ話。

そこからもう一度、どうせすぐに通り過ぎてしまう日常をもう一度繰り返すことにした。



遅くならないうちに、それぞれの車とバイクが停めてある駐車場へと向かった。

宅配便の受け取りには間に合うかわからないけれど。


「そういえばこれ、この間の旅行のお土産」


別れ際君から受け取った紙袋の中にハンカチが入っていた。

裏も表も、きっちりとした格子の決まりきったトランプカードのような幾何模様。

車を停車したままLINEを送る。


 >今日は忙しいところありがとう

 >ハンカチは仕事用に使わせてもらうよ


すぐに既読がつく。


 >こちらこそ

 >よかったら使ってね


どうせすぐに忘れてしまう日々が通り過ぎていく。



厚い雲が折り重なっている空を、ベランダから見るともなく見ていた。

月明かりか一番星が見えたらいいのに。

手の中には残り半分になったウィスキーソーダのグラスがある。

あと半分しかないのか、まだ半分もあるのか。どちらなのかはわからない。


通り過ぎるヘッドライト。カーテン越しに見える光と影。

それらを背景にグラスを口元へと運んだ。

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