座礁船

畑中先輩とは10年以上も前にインターネットを通じて知り合った。

当時彼は社会人数年目、僕はまだ学生だった。
SNSのアカウントでDMをいくつかやりとりした。しばらくして小さなオフ会のような形で出会った。

お互い浮き沈みの激しい不安定な時期に出会ったが、それなりに意気投合した。
とても些細な行き違いで連絡を取りあうのをやめてしまった。


その後なんとなく疎遠になってしまったがまた連絡をとるようになり、昨年の夏に数年振りの再会を果たした。

積もる話がそれほどあったわけではないけれど、1時間ほどお互いの身の上話をして「また近いうちに飯でも行きましょう」と言って別れた。



舂く陽光がビルをモノクロに染める。

歩行者天国、両脇に構えられたハイブランドのショールーム。

観光客、ビジネスパーソン、道ゆく人はそれぞれ思い思いの場所へと足を向ける。


その様子をビルの2階にある喫茶店の窓側の席から眺めるともなく眺めていた。

都営浅草線の東銀座駅を出たあたりのルノアール。ここは時間を潰すには最適なロケーションにある。


ウィンナコーヒーを掻き混ぜながらスマホをいじる。

周りを見渡すと比較的落ち着いた年代の男女やサラリーマンと思しき男性客が多く、皆一様にスマホを熱心に操作している。


彼らとの間に共通項なんてほとんどないのに、同族嫌悪のような感覚に襲われてスマホのスクリーンをオフにして、カバンの中からコンビニで購入した日経新聞を取り出した。


一番大きく太い文字で印刷された見出しが目に入る。


”円高上げ幅最大 前日の暴落から一転”


東京株式市場は、日経平均株価が前日に史上最大の下落幅を記録した反動で幅広い銘柄に買い注文が殺到した。

終値は前日比3217円4銭高の3万4675円46銭。上昇幅は1990年10月」2日の2676円55銭を上回って過去最大だった。


読み進めていくと、サーキットブレーカー措置についての解説や米国株式のブラックマンデーを紐解く内容が続けられていた。

嵐は頭上で既に吹き荒れているのかもしれないな。

良識的なカップルが静かにコーヒーをすすり、サラリーマンたちが入念にスマホを操作している様子を眺めながらぼんやりと思う。


テキストに記載されている歴史的なカタストロフィも渦中の人物にとっては意外と静かなものであったのかもしれない。

いつだって記述は主観によって歪められて、重要人物は脚色されたストーリーラインの主役を演じさせられる。

喫茶店の席に座って新聞を眺める脇役はどこにも登場しない。


>今、会社を出たところ
>ここで待ち合わせよう


LINEの通知を確認すると先輩から連絡と店の位置情報を示すURLが送られてきた。

空になったカップをソーサーに戻して、少し膨らんだ新聞を畳んでカバンに入れて席を立つ。


もう一度喫茶店の中を一瞥すると、変わらず皆スマートフォンに目を落として熱心に操作していた。



東銀座から日比谷方面へ向かって歩く。
メインストリートから奥に入った小道に歓楽街が続いている。

グレイスというバーがビルの3Fにある、ということなので上階まで向かう。

普段酒を飲む店には滅多に立ち寄らないので、少し気後れしてしまう。


入り口をあけると10脚ほどのカウンター席と奥にテーブルがいくつか見えた。
常連客と思しき数名が既にボトルを開けていた。一番奥のカウンターに畑中先輩が座っていた。


「久しぶり。お店の場所はわかりづらかったかな?」


マップを開きながらきたので、わりとすぐ見つかりました、と伝える。

ビール1本とミックスナッツを頼んだのだけれど、お腹が空いているだろうから何か頼もう。

メニューをさっと確認して、エビピラフとジントニックを注文する。


「まだまだ残暑が厳しいですね」


話すべきことが思い浮かばず、天気の話題を口にする。

久しぶりに顔を合わせる間柄に特有のぎこちない空気、それがあまり好きではない。

それと同時に心地よくも感じる。

真夏のエアコンが効いた室内で毛布に包まれるような、真冬のこたつでアイスを頬張るような感覚。

そういう不均衡な感覚を味わえるような関係性って悪くない。


「実は今日は取引先から直帰してきたんだ」


先輩の最近の仕事ぶりにしばし相槌を打ちながら聞く。

大手の広告代理店に勤めていたことがあり、中堅のできるサラリーマンを絵に描いたような畑中先輩は理路整然とした話を自然に展開する。

まるで慣れ親しんだジムのプールを悠々と泳ぎ回るように。


程なくして料理が運ばれてくる。それとほぼ同時に生演奏のバンドがスタンバイする。

今夜はビートルズ・トリビュートのバンドが出演するらしい。セットリストの1曲目は「プリーズ・プリーズ・ミー」だった。


演奏を聴くともなく聴きながら中庸的な夕食を咀嚼する。

数曲の演奏が終わってバンドが一息つく頃に2人とも完食して、皿が丁寧に下げられる。


「もしよかったらこのまま何か飲まないか?」


そうしましょう。混雑した夜の銀座で二軒目を探して歩く気にはならないですし。

メニューにしばらく目を通す。


「カティサークをふたつ。オンザロックでお願いします」


これは僕にご馳走させてください、先輩にそう伝える。


「ありがとう。今夜のバンドのセットリストはどう思う?」


「僕はあまり熱心なビートルズファンとは言えないですが、中庸的な選曲ですよね」


「君がリクエストできるとしたら何を選ぶかな?」


しばらく頭の中のジューク・ボックスでジャケットを入れ替えながら考える。

サージェント・ペパーズから何か聴きたいですね。


「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズをオーダーしてみよう」


バンドは快く応じてくれた。
最小限の編成で最大限の広がり。中域が豊かで鷹揚なヴォーカルが心地よかった。

2人で大きな拍手を送る。先輩は礼を言ってチップを手渡した。
それと同時に新しい客が3人、男女一組と女性が1人来店した。


「ありがとう。では続いて同じサージェント・ペパーズからラヴリー・リタを演奏することにします」


バンドリーダーがそう告げると、イントロのコーラスを省略したミニマルなアレンジで曲を展開していった。


最近はどう?という先輩の、比較的自由度の高い問いかけにしばし逡巡して答える。


「個人的には悪くない日常を送らせてもらっていますが、いささか不安定な状況が続いているように思えます」


「具体的にはどのようなことだろう?」



「具体的に何がどうと答えるのは難しいです。

 なにもかも全てが少しずつ狂っているのですが、総体としての世界は比較的ゆるやかに回っているように見えます。
 それが同時に強烈な違和感を覚える要因でもあります」


言葉をゆっくり選びながら話を進める。僕は先輩のように理路整然とは話せない。


「僕が恐ろしいと思うのは二つの事柄です。

 まずどんなに賢く見える人でも、”世間や一般人”などといった、自分も分母に含まれる事柄から自己を都合よく除外して考えているように思える事。

 一方で彼らは”科学的、客観的事実”という自身が含まれていない事柄にも関わらず、

 その仮想的な事実を根拠として、盲目的に信じているらしい事です」


そこまで一気に話すと少し氷が溶け出したウィスキーで喉を潤す。


「言いたいことはよくわかる。

 実際に人はどのような論理的な手続きで思考しているかはわからないし、本人にもきっとよくわかっていないのだろう。

 しかし大人らしく振る舞うためには、もっともらしい回答をあらかじめ用意しておかないといけない。

 税金の申告のときは所得をなるたけ少なく見せて、ローンの申請のときはできるだけ高く見せるように」


それ以上に巧い例え方はないですね、と伝える。

彼はカティサークを同じ飲み方でもう一杯注文して話を続ける。


「従前通りの中央集権的な管理社会か、あるいは強力な相互監視による懲罰社会か。

 そしてその下地として共産主義と民主主義とそれらの派生系が拮抗している。
 それら全部が実際のこととも言えるし、まやかしにすぎないとも言える」


僕はソルティ・ドッグを飲みたかったけれどメニューには見当たらないのでジントニックとミックスナッツのおかわりを注文する。


「30年、40年と我々は生きてきたわけじゃないですか。それで先輩は人間についてどう考えますか?」


酒が回ってきているのか僕の言葉には無駄な熱がこもり、支離滅裂になってきている。


「例えば、自動車の運転をするときにはルームミラーとサイドミラーで後方をよく確認します。

 行程が不明確であったとしても目的地はおおよその検討をつけます。

 これが自分自身の人生に置き換わった途端に、過去を顧みず目標も定まらないまま右往左往してしまうのはなぜなんでしょう?」


先輩は入り口に一番近いスツールで1人でギムレットを飲んでいる女性をしばらく眺めてから呟くように答える。


「標識の読み方も右左折のルールも、皆見よう見真似でわかったふりをしないといけないからさ」


ビートルズ・トリビュートバンドは「ジ・エンド」を演奏してからステージを後にした。



それから畑中先輩はギムレットの女性に声をかけて、しばらく3人で飲んだ。
僕は三杯目を飲んでから頭が正常に働いていないから、何を話したか覚えていない。

久しぶりに飲んだアルコールは細胞膜まで浸透してやがて神経系まで麻痺させたようだ。

女性と先輩はジャズ・ミュージックの話題で意気投合して二軒目へ向かうことになったらしい。


バーを後にして1人でしばらく銀座の街をぶらぶらと歩いた。

有楽町のガード下を抜けて東京駅まで歩き、夜景を眺めながら酔いを醒ましたいなと思った。

22時の5分前だったがオアゾに入っているスターバックスで、アイスラテのグランデサイズを注文した。

それを手に持って時々口へと運びながら、ただ夜の東京駅周辺を当てもなく歩いた。


夜の皇居周辺は熱心なランナーやカップル、会社帰りの人たちで比較的人通りは多かった。

東京駅の駅舎を遠くから眺めるともなく眺めながらぬるい夜風を浴びる。


ギムレットの女性と先輩は今頃何を話しているのだろう。

カティサークのボトルのロゴには帆船が描かれていた。

我々は当てもなく彷徨う小舟のようなものだ。
一隻は順風満帆に目的の島へと真っ直ぐに進んでいく。もう一隻は計器が故障して早くも暗礁に乗り上げかかっている。


手にした紙コップの冷感が麻痺した神経を宥め、アイスラテのカフェインが不愉快な頭痛を和らげるのを

僕はただひたすら待ち続けた。

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