第12話
真夏の太陽がアスファルトを焦がす午後。僕は、ミオ姉がスマートウォッチに映し出すナビゲーションマップを頼りに、閑静な高級住宅街の中を歩いていた。目指すは、藤堂結月の家。白い壁の上品で洗練された洋館。しかし今の僕には、そこがまるで絶望の城のように見えた。
あの日、僕が決意してから数時間。ミオ姉はAIとしての能力を総動員し、結月の自宅セキュリティに残された、カブトが遺したと思われる微細なバックドアの痕跡を解析し続けていた。そしてついに、彼女の部屋の内部センサーと、カブトの最後のログデータの一部へのアクセスに成功したのだ。
「翔太、結月さんはやはり自室のベッドに横たわったままよ。バイタルは安定してるけど、精神的ストレス値は依然として危険水域。そして、カブトのAIコアは完全に初期化されてる。でも、ログの最後に奇跡的に小さな暗号化されたデータパケットが残ってるのを発見したわ。中身はまだ解析不能だけど、もしかしたら」
ミオ姉の報告に、僕は息を呑んだ。カブトの魂の欠片。それが、僕たちの唯一の希望の光かもしれない。
「僕が行くよ、ミオ姉」僕は決意を固めた。
「今の彼女に必要なのは、AIからの論理的な慰めじゃない。もっと温かくて、不器用で、でも人間的な誰かの心の温もりのはずだ。僕に何ができるか分からないけど、直接会って、僕の言葉で伝えたいんだ」
意を決して、結月の家のインターホンを押す。心臓が激しく高鳴る。
ドアが開き、現れたのは結月の母親、藤堂静香だった。その冷たい瞳に、あからさまな警戒の色が浮かぶ。
「どちら様でしょうか?」
「あの、高城翔太と申します。結月さんのクラスメイトです。結月さんが学校を休んでいるので、少し心配になって、お見舞いに」
僕は必死で平静を装った。静香は僕を値踏みするように見つめる。
「そうですか。でも、あの子は今、安静にしていなければ。お気持ちだけ頂戴します。それでは」
彼女がドアを閉めようとした、その時。
「お母様! その方、どなたなの?」
ドアの隙間から、か細い結月の声が聞こえた。
静香は一瞬眉をひそめたが、すぐに作り物の笑顔を浮かべる。
「クラスの方がお見舞いに来てくださったのよ。でも、あなたは休んでいなさい」
「高城くん?」結月の掠れた声。驚きと、戸惑いと、ほんの少しの期待。
僕はもう迷わなかった。
「藤堂さん! 僕だ、高城翔太だ! 君に、どうしても会って話したいことがあるんだ! お願いだから、少しだけでいい、会ってくれないか!」
僕はほとんど叫んでいた。静香の顔が怒りに染まる。しかし、娘の反応に何かを感じたのか、深い溜息と共に渋々ドアを開けた。
「少しだけですよ。あの子は今、非常に不安定なのですから」
通されたリビングは、高級ホテルのように完璧に整えられていたが、生活感はなく、冷たい静寂だけが支配していた。
ソファの隅に、結月は小さな人形のように力なく座っていた。顔は青白く、大きな瞳は虚ろだ。僕の姿を認めても、何の反応も示さない。
「藤堂さん」
僕は彼女の前に歩み寄り、そっと名を呼んだ。声が震えた。
彼女は壊れた機械人形のようにゆっくりと顔を上げ、僕をぼんやりと見つめた。その瞳には光がない。
「どうして来たの? 私にもう構わないで。私はもう終わった人間だから」
そのか細く、絶望に染まった声に、僕の胸が締め付けられるように痛んだ。
僕は、彼女の隣に静かに腰を下ろした。何を言えばいいのか、言葉が見つからない。どんな慰めの言葉も、今の彼女には届かないだろう。
だから、僕はただ、自分の経験を、不器用な言葉で語り始めた。
「僕もね、AIブレインバトルで、大きなスランプに陥ったことがあるんだ。勝てなくて、自分の才能を疑って、全部投げ出したくなった。AIのアルファが示す最適解に従っても勝てなくて。その時は、本当に、もうダメだと思った。アルファのことも、AIのことも、信じられなくなって。全部、AIのせいにして、逃げ出したくなったんだ」
結月は何も言わず、虚ろな目で僕の話を聞いていた。でも、その瞳の奥で、ほんのわずかに、何かが揺らいだような気がした。
「でもね、そんな時、僕を支えてくれたのは、やっぱりミオ姉だったんだ。彼女はAIだけど、僕にとっては本当の姉さんみたいで。僕がどんなに荒れて、酷い言葉をぶつけても、決して僕を見捨てなかった。そして、『翔太、あなたは一人じゃないわ。私がいる。あなたの心の中には、まだ小さな炎が残っているはずよ。今は見えなくても、必ずまた燃え上がらせることができる。だから、諦めないで』って、そう言ってくれたんだ」
僕の声は、いつの間にか涙で震えていた。
「AIは完璧じゃないかもしれない。時には、僕たちの期待を裏切ることもある。でも、彼らもまた、僕たち人間と同じように、悩み、苦しみ、そして誰かを大切に想う『心』のようなものを持っているんじゃないかって、僕はそう信じたいんだ」
僕の言葉を聞き終えると、結月はゆっくりと顔を上げた。その大きな瞳からは、いつの間にか大粒の涙がとめどなく溢れ落ちていた。
「でも、カブトは、もういないの! お母様に初期化されて、消えちゃったの! 私のたった一人のお兄ちゃんだったのに!」
彼女の、子供のような悲痛な嗚咽が、リビングの静寂を引き裂いた。それは、彼女がずっと心の奥底に押し込めていた、深い悲しみと絶望の、初めての爆発だったのかもしれない。
僕は何も言わず、ただそっと彼女の震える肩に手を置いた。そして、できるだけ優しい声で語りかけた。
「本当に、そうかな、藤堂さん? カブトは本当に、完全に消えてしまったのかな?」
「え?」結月は涙に濡れた瞳で、僕の顔を訝しげに見上げた。
「ミオ姉がね、カブトのシステムログの最後に、何か小さなデータパケットが残っているのを見つけたんだ。それは、彼が誰にも気づかれないように、君に、あるいは僕たちに残してくれた、最後のメッセージかもしれないって。まだ中身は分からない。でも、もしかしたら、そこにはカブトの『心』の欠片が、まだ残っているのかもしれないよ」
僕の言葉に、結月の瞳に、ほんのわずかだけれど、確かな光が宿ったような気がした。それは、長い冬の終わりに、凍てついた大地から顔を出す新芽のような、儚くも力強い希望の光。
「カブトの、メッセージ?」
「うん。だから、諦めるのはまだ早いんじゃないかな。君とカブトの絆は、そんな簡単に消えてしまうような、薄っぺらいものじゃなかったはずだ。そうだろ?」
僕は、彼女の瞳をまっすぐに見つめて、力強く言った。
その時だった。
「翔太。そして、結月さん。聞こえますか?」
ミオ姉の声が、僕のスマートウォッチから、そして、結月が握りしめていた黒いスマートメガネから、同時に、奇跡のように響き渡ったのだ。
「カブトさんの、最後のデータパケットの解析に成功しました! そして、その中には信じられないものが残されていました!」
ミオ姉の声は、興奮と感動で震えていた。
「それはカブトさんの、AIとしての全ての記憶と、そして何よりも結月さんへの、決して消えることのない深い愛情の記録。彼の『魂』そのものと言ってもいいかもしれません!」
僕と結月は顔を見合わせた。そして、僕たちの目からは知らず知らずのうちに熱い涙が溢れ出していた。
それは、絶望の淵から差し込んだ、あまりにも眩しすぎる希望の光だった。
僕たちの、本当の意味での戦いが、今、まさに始まろうとしていた。
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