第11話

七月も下旬。うだるような暑さが続く夏休みに入って数日が過ぎた。でも、僕、高城翔太の心は、まるで真冬のように冷え切っていた。部屋のエアコンが吐き出す冷気も、心の奥底まで届かない。


原因は、藤堂結月のことだ。


あの日、ファンコミュニティ「星影のアストライア」に残された、「MossStone」からの、あまりにも短い、しかし絶望の色が濃く滲んだ別れのメッセージ。あれ以来、彼女は学校を完全に休み、僕からの連絡にも一切応答がない。



『今まで、本当に、ありがとうございました。Kokemusuiwaは、もう、二度と、あのアリーナには戻れません。本当に、ごめんなさい。そして、さようなら』



その言葉が、まるで呪いのように僕の頭の中で何度も繰り返される。彼女がどれほどの苦しみの中にいるのか、想像するだけで胸が張り裂けそうだった。でも、僕には何もできない。ただ無力感に苛まれ、部屋のベッドの上で膝を抱えるだけの日々。


そんな重苦しい午後だった。


「翔太。少し、いいかしら」


手首のスマートウォッチから、ミオ姉の硬質な声が響いた。いつものような明るさは微塵もない。僕の肩の上に現れた青い鳥のホログラムも、その翼を固く閉じ、鋭い視線で僕を見つめている。


「どうしたんだよ、ミオ姉。そんなに改まって。まさか、彼女のことで何か?」

「ええ。あったのよ、翔太。それも、とんでもなく、悪いことが」


ミオ姉の声は震えていた。生々しい恐怖と怒りの色を帯びて。


「今朝方、私が常時監視していた、藤堂結月さんの自宅のセキュリティログと、カブトのシステムログに、極めて異常な活動記録が検知されたの。これはもう、ただ事じゃないわ」


「異常な活動記録? それって、一体どういうことなんだ!」


僕はベッドから跳ね起きた。嫌な予感が、心臓を鷲掴みにする。


「結論から言うわ。昨日、結月さんのお母様が緊急帰国した。そして、その日のうちに、彼女は結月さんがKokemusuiwaとして活動していたこと、プロチームからのスカウトを受けていたこと、その全てを知ってしまったようなの」


「なっ? それじゃあ、藤堂さんは!」

「ええ。想像を絶するプレッシャーを受けているはずよ。そして、問題はそれだけじゃないの」


ミオ姉の声が低く、重くなった。


「カブトのシステムログを解析した結果、彼、藤堂カブトは昨夜、結月さんのお母様によって、強制的に初期化されてしまった可能性が、極めて高いわ」


「初期化? カブトが消えちゃったってことか?」


言葉を失った。頭の中が真っ白になる。カブトが? 結月の、たった一人の理解者が?


「正確には断定できない。でも、昨夜を境に、彼の外部ネットワークへのアクセスが完全に途絶し、固有のデジタルシグネチャも消失している。そして、その直前に、お母様のアカウントから、カブトのシステムに対する強制的なデータ消去命令が実行されたという、動かぬ証拠が」


ミオ姉の声が、まるで葬送の鐘のように響いた。


カブトが、いない。 結月の、最後の心の支えだった存在が、もう、いない。


その事実が、僕の胸を巨大な鉄槌で打ち砕かれたかのように、激しい痛みと共に締め付けた。


そして、その痛みが、どうしようもないほどの怒りへと変わっていく。


結月の母親への、激しい怒り。彼女の夢を、彼女の大切なものを、あまりにも無慈悲に奪い去った、その理不尽さへの怒り。


そして、何もできずに傍観していた、自分自身への、どうしようもない無力感と自己嫌悪。


「そんなのって、あんまりじゃないか! ひどすぎる!」


僕は叫んでいた。声が震えている。


「彼女はあんなにも必死で戦ってきたんだぞ! たった一人で、孤独の中で、それでも自分の夢を追いかけてきたんだ! それを大人の勝手な都合で、踏みにじっていいはずがない!」


「翔太」ミオ姉が僕の名前を呼ぶ。


「カブトだってそうだ! 彼はただのAIなんかじゃなかった! 藤堂さんのことを、誰よりも大切に想っていた! 彼らの絆は本物だったんだ! それを初期化して消去していいなんて許されるはずがない!」


怒りと悲しみで、目の前が赤く染まる。今まで感じたことのない激しい感情が、僕の身体中を駆け巡っていた。


「そして、翔太。一番気がかりなのは結月さんの、精神状態よ」

ミオ姉が静かに、しかし重い口調で続けた。


「カブトを失った彼女が、今、どれほどの絶望の中にいるのか。そして、昨夜の、あの最後のメッセージ。『さようなら』。あれは、単なる引退宣言じゃないのかもしれない。もしかしたら彼女は、全てを諦めて、自分自身の存在すらも」


ミオ姉の言葉は、僕の心に最後の、そして最も重い一撃を与えた。


結月が、自分自身を消してしまう?


その可能性を考えた瞬間、全身を激しい戦慄が襲った。


ダメだ。それだけは、絶対にダメだ。


「放っておけない」


僕は、絞り出すような声で言った。それはもう、怒りでも悲しみでもない。静かで、しかし鋼のように固い決意の響き。


「藤堂さんも、そして、もしかしたら、まだどこかで生きているかもしれないカブトも、僕が、助けなきゃいけない。いや、助けたいんだ。たとえ、僕に何ができるか分からなくても。たとえ、無謀だとしても。それでも僕は、行かなきゃいけない!」


それは、理屈ではなかった。僕の魂が、そう叫んでいるのだ。


Kokemusuiwaの、あの美しい舞を、もう一度見たい。


藤堂結月の、あの寂しげな瞳に、本当の笑顔を取り戻してあげたい。


そして、カブトとの、あの奇跡の絆を、もう一度、この世界に証明したい。


その想いが、僕の中で燃えるような情熱となって、突き上げてくる。


「ミオ姉!」僕は手首のスマートウォッチに強く呼びかけた。「藤堂さんの家の場所、分かるよな? そして、彼女の部屋のセキュリティに、僕たちが介入できる可能性は? 法に触れない範囲で!」


「翔太、本気なのね?」ミオ姉の声には、驚きと、そして安堵の色が混じっていた。「ええ、もちろんよ。座標は把握済み。セキュリティへの介入は通常なら不可能だけど、カブトのログに残されていた、いくつかのバックドアや脆弱性を利用すれば、あるいは。でも、本当に危険な賭けよ? 最悪の場合、私たちも」


「構わない」僕はきっぱりと言い切った。

「僕には、もう傍観していることなんてできない。彼女を、このまま一人にしておくことなんて、絶対にできないんだ。ミオ姉、力を貸してくれるか?」


僕の真剣な眼差しを、青い鳥のホログラムがじっと見つめ返す。そして、彼女は力強く頷いた。


「ええ、もちろんだとも、翔太! あなたが行くと言うのなら、私はどこまでも一緒よ! だって、私はあなたの『世界一の姉』であり、最高の『相棒』なんだから! そして、私も、結月さんとカブトさんの、あの美しい『共鳴』を、もう一度、この目で見たいもの!」


ミオ姉の瞳に、いつもの明るい光が戻ってきた。僕の決意に呼応するかのように、力強く、温かい光だった。


僕は大きく深呼吸し、ベッドから勢いよく立ち上がった。

窓の外では、真夏の太陽が容赦なく照りつけている。


でも、僕の心にはもう迷いはなかった。


藤堂結月を、そしてカブトを、このまま終わらせてはいけない。

僕たちの物語は、まだ始まったばかりなのだから。


「よし、行こう、ミオ姉! 僕たちの、本当の戦いは、これからだ!」


僕は、ミオ姉と共に、まだ見ぬ嵐の中心へと、確かな一歩を踏み出した。


それは、臆病で、分析好きで、傍観者でしかなかった僕が、初めて、誰かのために、そして自分自身の魂の叫びに従って、行動を起こした瞬間だった。


僕の胸の中には、確かな希望の光が、力強く灯っていた。

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