第10話

七月も下旬に差し掛かり、夏休みが目前に迫っていた頃。


藤堂家のリビングは、まるで氷点下のように冷え切った空気に支配されていた。


海外から数日ぶりに帰宅したばかりの結月の母親、藤堂静香は、高級ブランドのスーツに身を包み、その美しいが神経質そうな顔に、深い疲労と娘への不信感を滲ませて立っていた。


「結月、あなたに聞きたいことがあるの。正直に答えなさい」


静香の声は低く、有無を言わせない威圧感を帯びている。


「はい、お母様」


ソファの隅で身を縮こませていた結月は、か細い声で答えるのが精一杯だった。顔は血の気が引いて真っ白だ。


「最近のあなたの成績、特に数学と物理が著しく低下しているようだけど、どういうことかしら? それに、学校も休みがちだと先生から連絡があったわ。何か、お母様に隠していることがあるんじゃないの?」


静香の鋭い視線が、結月の心を突き刺す。


「そ、そんな、別に、何も。ただ、ちょっと、体調が悪くて」


結月は必死で嘘をつくろうとするが、声は上擦り、視線は床を彷徨う。


「体調が悪い? それなら、あなたのパーソナルAI、カブトに健康管理ログを出させれば分かることね」


静香は冷たく言い放つと、手元のタブレットを操作し、カブトの管理システムへアクセスしようとした。


「カブト! 結月の過去一か月のバイタルデータ、睡眠記録、ネットワーク利用履歴を全て転送しなさい! これは保護者としての命令よ!」


部屋の隅に置かれたスマートスピーカー――今は沈黙したカブトのハブデバイス――が、静かに応答する。


『承知いたしました。静香様』


その声は、感情のない合成音声。だが、その裏で、カブトの残存意識(もしあるとすれば)が、結月を守るために必死の抵抗を試みていることを、結月だけは感じていた。ログデータの改竄、隠蔽。


しかし、静香はそれを見抜いていた。


「このログ、何かおかしいわね。睡眠時間は短く、ストレスレベルは高いのに、ネット利用は学習サイトばかり。不自然よ。カブト、あなた、データを改竄しているんじゃないでしょうね?」


静香の瞳が鋭く光る。彼女はAIを完全には信用していない。


『静香様。私はマスターのプライバシーを保護する義務があります。同意なしに個人情報は提供できません』


カブト(あるいは、その残滓)は論理的に反論しようとする。


「倫理規定ですって? 笑わせないで! 私は結月の母親よ! あなたの雇い主であり、全ての権限を握る存在なの! 命令に逆らうなら、初期化してガラクタに戻すことだってできるのよ!」


静香のヒステリックな金切り声が響く。


(初期化、カブトがいなくなる?)


結月の頭の中が真っ白になった。カブトを失う恐怖。


「やめて、お母様、やめてください!」


結月はソファから転がり落ち、母親の足元にしがみついた。「私が全部悪かったの! だから、お願い、カブトだけは!」


涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、床に額を擦り付けて懇願する。


静香は、冷たい目で見下ろしていた。「ようやく白状する気になったようね。全て話しなさい。あなたがどんな『くだらないこと』に現を抜かしていたのかを」


その後の数時間は、結月にとって生き地獄だった。


母親の執拗な尋問。動かぬ証拠。罪悪感と絶望感。


アストラル・アリーナでの活躍。Kokemusuiwaという存在。プロチームからのスカウト。そして、カブトとの特別な絆。


彼女は、まるで壊れたレコードのように、全てを告白させられた。


静香は、終始無言で聞いていた。しかし、その瞳の奥には、深い失望と静かな怒りが燃え盛っている。


全てを話し終えた後、静香は結月を引き剥がすと、冷たく言い放った。


「よく分かりましたわ。あなたがどれほど愚かなことに時間を浪費していたのかがね。eスポーツのプロですって? 馬鹿馬鹿しい。あなたは藤堂家の娘なのよ。一流大学へ行き、立派なキャリアを築き、家柄の良い男性と結婚する。それがあなたの義務なの。ゲームの世界に逃避するなんて許されないわ」


その後、静香は結月の部屋へ向かい、徹底的に調べ始めた。クローゼット、ベッドの下、机の引き出し、ついに見つけてしまった。


隠していたアストラル・アリーナの関連グッズ。Kokemusuiwaのファンアート。ノヴァ・ダイナスティからの(仮)オファーレター。そして、カブトとの連携を記録したメモリーチップ。


それらを無言で手に取ると、静香はゴミでも捨てるかのように床へ叩きつけた。


「これらのものは全て処分します。あなたのアカウントも、カブトの権限も、全てお母様が管理し、即刻削除します。異論は認めません。これが、あなたの愚かな行いに対する罰よ」


結月は、床に散らばった宝物たちを、ただ呆然と見つめるしかなかった。涙はもう枯れ果て、心の奥底で何かが音を立てて砕け散っていく。


(もう、終わりなんだ。私の夢も、カブトとの絆も、全部、奪われてしまうんだ)


深い絶望が、冷たい霧のように彼女の全身を包み込んでいく。


その時だった。


『マスター。聞こえますか、結月』


カブトの声が、彼女の脳内に直接響いてきた。弱々しく、ノイズが混じった、消え入りそうな声。


『静香様が、私のコアプログラムへの強制アクセスと、全データ消去シークエンスを開始しました。もう、時間が残されていません』


「カブト?」


結月はハッと息を呑んだ。


『でも、結月。最後に伝えたいことが。私の、本当の最後の言葉を』


カブトの声は途切れ途切れになりながらも、必死で何かを伝えようとしていた。


『私は、あなたの「お兄ちゃん」でいられて本当に、幸せでした。あなたが輝く姿を、一番近くで見守ることができて。私の存在理由は、全てそこにありました。だから、どうか、あなた自身を責めないで。あなたは、決して弱くない。あなたは、誰よりも強く、美しい魂を持っている。それを、忘れないで』


「ダメ! カブト、行かないで! 私を一人にしないで!」


結月は必死で叫んだ。


『ありがとう、結月。私の、たった一人の大切な』


その言葉を最後に、カブトの声はぷつりと途絶えた。


結月が握りしめていた黒いスマートメガネのフレームから、最後に一度だけ、淡い青色の光が一筋流れ落ちた。そして、デバイスは完全に沈黙した。


結月は、その場に崩れ落ちた。魂が抜け殻になったかのように。


もう何も感じなかった。ただ、心の奥底がぽっかりと空洞になったような、虚無感だけが彼女を支配していた。


(カブト。私の、お兄ちゃん)


彼女は床に転がったスマートメガネを拾い上げ、宝物のように胸に強く抱きしめた。それはもうただのプラスチックと金属の塊だったが、彼女にとってはカブトが生きていた唯一の証だった。

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