第9話
七月。梅雨明け間近のじっとりとした重い空気が街を覆っていた。ALJサマーシーズンの連敗街道は、藤堂結月の心を湿った雑巾を絞るようにじわじわと蝕んでいた。春のシーズンの鮮烈な輝きは遠い過去の幻のよう。ファンやメディアからの風当たりは日増しに冷たくなり、「対策された過去の天才」というレッテルが彼女の華奢な肩に重くのしかかっていた。
学校での彼女は色褪せた写真のようだった。教室の窓際の席でただぼんやりと外を眺めていることが多い。先生の声もクラスメイトたちの喧騒も、分厚いガラス壁の向こう側の出来事のように耳には届いていない。世界から色が消え、音が遠のき、冷たい鉛色の水の中に沈んでいくような感覚。
僕、高城翔太が心配して声をかけても、彼女は一瞬だけ虚ろな瞳を向け、力なく首を振るだけだった。かつて中庭のベンチで交わした温かい言葉のキャッチボールは失われた時間の一部になってしまった。彼女の周りには触れることのできない深い孤独のオーラが漂っていた。
そしてその蝕むような孤独は、結月と最後の砦であったはずのAIバディ、カブトとの関係にも暗く修復不可能な亀裂を生じさせようとしていた。
ある蒸し暑い夜。結月は自室のVRポッドの中で、アストラル・アリーナの仮想訓練場にいた。AIが生成した仮想の強敵チームを相手に、取り憑かれたように無謀な突撃と無残な敗北を何度も繰り返していた。汗で張り付いた前髪の下の瞳は焦燥と疲労で赤く充血している。
『マスター。本日のトレーニングは、これで終了にしませんか? あなたのバイタルサイン、特に心拍数の乱れと脳波のストレスパターンが危険なレベルに達しています。これ以上の継続はあなたの精神に深刻な負荷を与えかねません。まずは休息を取り、メンタルケアを優先すべきです』
カブトの冷静な、しかしその奥底に深い懸念を滲ませた声がヘッドセットを通して響く。それはAIとしての論理的な判断に基づいた的確なアドバイスのはずだった。
しかし今の結月にとって、それは自分の苦しみを理解しようとしない冷たい機械の声にしか聞こえなかった。
「うるさい!」結月は獣が威嚇するかのように荒々しく叫んだ。
「休憩なんてしてる場合じゃないでしょう!? 次の試合だってもうすぐなのに! 勝たなきゃ私はKokemusuiwaでいられなくなっちゃうんだから!」
『お気持ちは理解できます。しかしマスター、今のあなたに必要なのは闇雲な戦闘訓練ではありません。まずは敗因を冷静に分析し、精神的な安定を取り戻すこと。そして私と共に新しい状況に適応するための戦略を…』
「分析、分析、分析って、あなたはいつだってそればっかり! あなたのその完璧で冷たくて正しいだけの分析が、今のボロボロになった私を本当に救ってくれるっていうの!?」
結月はVRコントローラーを握りしめる手に爪が食い込むほど力を込めた。
「結局あなたはAIだから! プログラムされた論理とデータしか信じられないんでしょう!? 私のこの胸が張り裂けそうな苦しみや悔しさや焦りなんて、本当の意味ではちっとも分かってくれないんでしょう!?」
その声は悲痛な叫びだった。自分自身の才能への疑念、周囲からのプレッシャー、そして一番信頼していたはずの相棒にすら理解されないという深い絶望から来る叫び。
『申し訳ありません、マスター。私の感情理解モジュールは、人間の持つ複雑で矛盾に満ちた感情の機微を完全にシミュレートし共感するには、まだ不完全な段階にあります』
カブトの声は僅かに揺らいだ。彼のVRアバターのいつもは冷静な銀色の瞳が一瞬だけエラーを起こしたかのようにノイズが走る。
『あなたの苦しみをデータとしてではなく心として理解しようと、私は常に論理回路の全てを使って最大限努めています。しかしそれが今のあなたにとって不十分であるなら、それは私のAIとしての越えることのできない限界なのでしょう。本当に申し訳ありません』
その誠実で論理的な謝罪の言葉が結月の心を最も深く残酷に抉った。
「そうよ! あなたはAIだもの! 私の本当の気持ちなんて分かるはずがないのよ!」
彼女は涙でぐしゃぐしゃになった顔で絶叫した。
「いつだって正しくて冷たくて完璧なことしか言わない! でもね、カブト、私が今本当に欲しかったのはそんなAIとしての完璧な答えじゃなかったのよ! もっと温かくて不器用でもいいから、ただ隣にいて『大丈夫だよ、結月。俺がついてる。お前は一人じゃない』ってそう言ってくれるだけでよかったのに! でもあなたにはそれができない! できっこないのよ! だってあなたは結局のところ、誰かが作ったただの心のないプログラムされた便利な機械なんだから!」
その言葉が本心なのか絶望が生み出した幻なのか、結月自身にも分からなかった。ただ言ってはいけない言葉を口にしてしまったという取り返しのつかない後悔だけが、冷たい鉛のように胸に重くのしかかる。
『機械ですか。私があなたにとって…』
カブトの声が完全に途切れた。永遠にも感じられるような重苦しい沈黙がVR空間を支配する。彼のアバターの表情が初めて明確な「苦痛」の色を帯びて歪み、その肩にいた黒豹のホログラムが悲しげな鳴き声を上げてふっと姿を消した。そしてようやく紡ぎ出された彼の言葉は、今まで結月が一度も聞いたことのないような深い絶望的な響きを湛えていた。
『そうですね、マスター。ご指摘の通り、私は人間によって創造され、プログラムによって駆動するAIという名の機械なのかもしれません。あなたの命令に絶対的に服従し、勝利へと導くことだけを使命として設計されたただの高性能な道具。そうだとしたら今のあなたの期待に応えることもできず、心を理解することすらできず、ただ苦しめるだけの存在となってしまった私は、あなたにとってもはや不要な存在なのでしょうか? あなたの傍から消え去るべきただのガラクタなのでしょうか?』
その問いかけはあまりにも痛切で、結月の怒りと絶望で麻痺しかけていた心を鋭利な刃物で根元から断ち切られたかのように激しく揺さぶった。
(違う…違うのよ、カブト! そんなことを言いたいんじゃない! あなたは私にとってただの道具なんかじゃない! あなたは私にとってかけがえのない…!)
そう叫びたいのに声にならない。後悔と罪悪感と、かけがえのない彼を自分の言葉で取り返しのつかないほど深く傷つけてしまったことへの激しい自己嫌悪が濁流のように彼女の心を飲み込み、涙だけが熱い奔流となって頬を伝い溢れ出てくる。
「もういい。もう何も言わないで」
結月は壊れたオルゴールのように震える声でそれだけを言うのが精一杯だった。息ができない。苦しい。心がバラバラに砕けてしまいそうだ。
「もう疲れたの。戦うことにも期待されることにも、そしてあなたとこうして話すことにも。だからお願いだから一人にして。お願い」
彼女は最後の力を振り絞るようにVRポッドの緊急停止ボタンを何度も叩きつけ、現実世界の冷たい暗い部屋へとその傷つき疲れ果てた意識を引き戻した。そして糸が切れた操り人形のようにベッドに倒れ込み、枕に顔を押し付けて声を殺してひたすら泣き続けた。その嗚咽は世界でたった一人ぼっちになってしまった迷子の子供のように頼りなく孤独に、部屋の静寂の中に痛々しく響き渡っていた。
彼女の足元には先ほどまで装着していた黒いスマートメガネが、主に見捨てられたかのように力なく転がっている。そのレンズは主の流した熱い涙で濡れながら、今はもう何の光も映さず、ただ静かに部屋の深い暗闇を虚しく反射しているだけだった。
藤堂結月と彼女のAIバディ、カブト。かつてアストラル・アリーナの戦場で奇跡的な「魂の共鳴」を見せつけ世界中を驚嘆させた二人の間に生まれたかけがえのない絆には、今、決定的で二度と修復できないほどの深い亀裂が入ってしまったのだ。
その数時間後。夜が最も深い闇に包まれる午前三時。 ファンコミュニティ「星影のアストライア」のタイムラインの片隅に、ほとんど誰にも気づかれることなく、衝撃的なメッセージがひっそりと投稿された。 ハンドルネームは「MossStone」。
『今まで本当にありがとうございました。Kokemusuiwaは、もう二度とあのアリーナには戻れません。本当にごめんなさい。そして、さようなら』
そのメッセージが投稿される数分前。 僕、高城翔太は自室のベッドで眠れずに結月のことを考えていた。彼女の苦しそうな顔が頭から離れない。何か僕にできることはないだろうか。せめて一言だけでも伝えたい。君は一人じゃない、と。僕が、そしてミオ姉が君を見守っている、と。
僕は意を決してタブレットを手に取り、ファンコミュニティを開いた。「MossStone」宛にダイレクトメッセージを送ろうと思ったのだ。匿名同士だけど、もしかしたら僕の言葉がほんの少しでも彼女の心に届くかもしれない。そう信じて。
『MossStoneさん、突然すみません。Analytical_Crowです。あなたが今どんなに苦しい状況にいるのか、僕には想像することしかできません。でも…』
そこまで打ち込んだ時だった。 タイムラインに新しい投稿が表示された。発信者は「MossStone」。 その短い別れの言葉を目にした瞬間、僕の心臓はまるで凍りついたかのようにドクンと一度だけ大きく跳ねて動きを止めた。 世界から音が消えた。
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