第8章 記憶の灯、ふたつの声
夜が来るのが、あんなに早い街は初めてだった。
陽が落ちると、建物の影がひとつずつ溶けて、
通りはまるで水の底のようにゆらめいていく。
「今日はもう休もう。」
ノアの声が静かに響く。
今は、ちゃんと“音”がある。
それだけで、どこか泣きたくなるほど安堵した。
広場の片隅にある旧宿舎を借り、
私たちは焚き火を囲んだ。
魔導火は青白く揺れ、焙煎の香りが夜気に混じって漂う。
「焙煎の匂いって、安心するよね。」
アルマが両膝を抱えて笑った。
風の精霊のはずなのに、その仕草はとても人間らしい。
「火は生き物だからな。」
ノアが木片をつまみ上げる。
「目を離すとすぐ拗ねる。」
「あなたが言うと説得力あるわ。」
レナが苦笑する。
「で、報告は?」
彼女は端末を開き、静かに画面を覗いた。
「……やっぱり、通信ノイズ。境界経路が不安定になってる。」
「どういうことですか?」
「“裂け目”が閉じてない。
それどころか、広がってる可能性がある。」
その言葉に、焚き火の光がわずかに揺れた。
風が、怯えているように感じた。
沈黙を破ったのはアルマだった。
「……ねぇ、ミナ。」
「うん?」
「私、あの街で……声を聞いたの。」
「声?」
「ううん……たぶん、夢の中。
でも、その人が“ミナ”って呼んでた。」
思わず呼吸が止まった。
「それ、私じゃなくて?」
「うん。違う。
あなたの声に似てるけど、少し……冷たかった。」
焚き火の火がパチ、と弾けた。
その音が、やけに遠く聞こえた。
「なんて言ってた?」
「“戻ってこい”って。
“お前はこっち側の人間じゃない”って。」
胸の奥がざわつく。
けれど、どこかで納得している自分もいた。
「境界を越えると、“もう一人の自分”が見えることがある。」
レナが言った。
「魂の複写現象。異界渡航者の一部にはよくある話よ。」
「それ、放っておいたらどうなるんです?」
「重なる。
つまり、“自分”が二重になる。
意識の境界が壊れる前に、対応しないと。」
「対応って……どうすれば?」
「向き合うことね。」
ノアが火を見つめたまま、静かに言った。
「逃げたら飲まれる。どんな影でも、光を見なきゃ消えねぇ。」
その言葉が、焙煎の香りのように胸に染みた。
アルマは不安そうに私の手を握る。
「ミナ、もしも“もうひとりのあなた”が現れたら、どうするの?」
「……たぶん、話すと思う。」
「怖くない?」
「怖いよ。でも、
“怖いもの”を避けてきたら、
本当に大事なものまで見失う気がする。」
アルマはしばらく黙って、それから小さく笑った。
「……そういうところ、やっぱり好き。」
「え?」
「だって、火に似てるもん。」
「火?」
「熱くて、でも優しい。
焙煎の香りみたいな人。」
その言葉に、少しだけ照れくさくなった。
レナが端末を閉じて立ち上がる。
「明日は一度“記録炉”の反応地点を探るわ。
裂け目の広がり方次第では、早急に戻る必要がある。」
「了解。」
ノアが短く答え、火を囲むように寝床を整える。
私は最後まで焙煎の香りを嗅いでいた。
香りは優しいのに、どこかざらついていた。
まるで、遠い場所で誰かが火をいじっているような――。
その夜、夢を見た。
音のない部屋。
壁に古い時計があり、秒針が止まっている。
焙煎機の火だけがゆっくり脈を打っていた。
その前に、ひとりの少女が立っている。
髪の長さも、瞳の色も、私と同じ。
でも、目の奥の“温度”が違った。
「やっと来たのね。」
「あなた……誰?」
「灯月ミナ。
――もうひとりの、あなた。」
声が響いた瞬間、焙煎機の火が青く燃え上がった。
彼女の瞳にも、同じ光が宿る。
「どうして……あなたが私の名前を……」
「私が“先”だからよ。」
世界が歪んだ。
香りが苦くなる。
彼女が笑う。
「あなたが私を忘れたから、裂け目ができた。
“優しさ”で覆ったその手が、
本当は誰よりも“冷たかった”ってこと、
思い出して。」
焙煎機の音が、鼓動みたいに鳴り響く。
光が強くなり、部屋が白に染まった。
「ミナ!」
誰かの声で、目が覚めた。
アルマが覗き込んでいる。
「すごくうなされてた……大丈夫?」
「……うん。夢、見てた。」
「どんな?」
「もうひとりの私が……笑ってた。」
外では風が鳴っていた。
その音が、どこかで聞いた“鐘”に似ていた。
「……呼んでる。」
「誰が?」
「わからない。でも、行かなきゃ。」
私は立ち上がり、焙煎袋を握りしめた。
香りが、淡く光を放っている。
遠くの夜空の下で、
確かに誰かの声がささやいた。
『戻ってこい、灯月。――記録は、まだ終わっていない。』
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