第9章 風の同調、ふたつの鼓動


 朝の光が、まるで水面から差し込むように揺れていた。

 目を開けると、焚き火はすでに灰になっている。

 あれほど温かかった夜の残り香が、どこか冷たく感じた。


「……また夢を見た。」


 夢の中の彼女の声が、まだ耳の奥に残っていた。

 “戻ってこい”という囁き。

 あれは幻覚なんかじゃない。

 まるで、私の中にもう一人の心臓があるみたいに、鼓動が重なっていた。


 


 外へ出ると、アルマが風と遊んでいた。

 風の粒が光のように舞い、彼女の髪を揺らす。


「おはよう、ミナ。」


「……眠れた?」


「うん。けど……変な感じ。」


「変?」


「風が、混ざってるの。

 この街の風と、私の風と、もうひとつの風が一緒に回ってる。」


「もうひとつ?」


「名前は、まだない。

 でも、あなたの香りに似てる。」


 胸の奥が少し痛んだ。

 昨夜の夢が、再び形を取り始める。


 


 レナが外に出てきて、端末を起動する。

「境界記録、再解析中。……おかしいわ。」


「どうしたの?」


「空間波が重なってる。

 本来なら閉じてるはずの“裂け目”が、二重構造になってる。」


「二重って……つまり?」


「この世界に、“もう一つの層”が干渉してる。」


 ノアが眉をひそめる。

「夢の方から現実を侵食してるってことか。」


「そう。……記録が“再生”を始めてるの。」


「再生?」


「焙煎炉に保存されていた“灯月ミナ”の記録。

 それが現実のあなたに干渉してるのよ。」


 息が詰まった。

 まるで胸の中の空気が反転したみたいに。


「私……誰かの記録なんですか?」


「違う。

 “あなたの記憶”が、別の時間に保存された。

 それが今、呼び返されてる。」


 


 その瞬間、風がざわめいた。

 アルマの体から光が漏れる。


「……っ!?」


「アルマ!?」


「だいじょ……ぶ。ちょっと、頭が、ぐるぐるして……」


 風の粒が暴れ、周囲の砂を巻き上げる。

 ノアが即座に防御姿勢を取った。

「風圧上昇! 制御が利いてねぇ!」


 レナが呪文コードを展開する。

「補助回路起動――制御フィールド展開!」


 青い輪が地面に描かれ、風がそこに吸い込まれる。

 けれど、アルマの瞳はすでに別の色をしていた。


 ――淡い金。


「……だれ、か……いる。」


 声が、アルマの口から漏れた。

 それは、彼女の声ではなかった。


「“灯月”――お前は、私を忘れた。」


「やめて!」

 ミナが叫ぶ。


「忘れたんじゃない!」


「いいえ。お前が選んだ。

 優しさで包んで、記録を閉じた。

 だから、私は“記録の中”に残された。」


「違う……私は……!」


 風が裂け、音がねじれた。

 アルマの身体が宙に浮く。

 その中心に、青い焙煎の光が現れた。


 それは、あの“夢の中の青焔”と同じだった。


「境界干渉値、急上昇!」

 レナが叫ぶ。

「このままじゃ、街が巻き込まれる!」


「止める!」

 ミナは駆け出した。

 風の中を、光の向こうへと。


 


 青焔の中に、彼女がいた。

 もうひとりの灯月ミナ。

 夢と同じ、けれど今度は確かに“生きていた”。


「……どうして、そんな顔をするの?」


「あなたが泣いてるから。」


「泣いてなんか――」


 言いかけて、気づいた。

 頬が熱い。

 焙煎の香りが滲む。


「あなたが“優しさ”で私を閉じ込めた。

 “誰かを傷つけない”ために。

 でもそれは、私の痛みを消したわけじゃない。」


「私は、守りたかっただけ……!」


「そう。

 だから私は、“守られたまま”この世界に取り残された。」


 青焔が波打つ。

 ミナの身体の輪郭が揺らぎはじめる。


「……お願い。消えないで。」


「消えない。

 でも、混ざる。」


「混ざる?」


「そうしないと、もう戻れない。」


 ミナは唇を噛んだ。

「それでもいい。

 私があなたを閉じ込めたのなら、今度は一緒に歩く。」


 青焔が強くなり、二人の影が重なる。

 風の音が戻り、アルマの体が光の中で静かに落ち着いた。


 


「……ミナ?」

 アルマが目を開ける。

 金の光が消え、いつもの瞳に戻っていた。


「うん。……大丈夫。」


 レナが息をつき、ノアが空を見上げる。

 裂け目の光が、ゆっくりと閉じていった。


「境界値、安定。……再同調成功だ。」


「よくやったな。」


 ノアの笑みが、どこか安堵と哀しみを混ぜていた。


 


 街に静かな風が吹いた。

 焙煎の香りが穏やかに広がる。

 遠くで鐘が鳴り、誰かの影が動く。


「これで終わり……じゃないですよね。」

 ミナが言った。


 レナは頷く。

「ええ。今のは“接続”。本体はまだ、記録の奥にいる。」


「行くのか。」

 ノアの声に、ミナは笑った。

「ええ。次は、私の記録を焙き直す番です。」


 アルマが風を纏い、そっと寄り添う。

「どんな風でも、一緒に行くよ。」


「ありがとう。」


 青い焙煎の粒が、掌の中でまた灯った。

 それはもう、痛みの光じゃなかった。


「この香りの向こうに、もう一人の私がいるなら――

 今度は、ちゃんと名前で呼ぶ。」


 風が答えるように吹いた。

 そして、鐘の音が再び鳴る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

2025年12月8日 21:10
2025年12月10日 21:10
2025年12月15日 21:10

喫茶美月 菊成朔 @efkiku429

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ