第7章 沈む街、音の欠片
空を渡る瞬間、光が一度だけ弾けた。
次に目を開けたとき、すべての音が消えていた。
風も、鳥も、靴音も――。
世界が息を止めたみたいだった。
「……ここが、裂け目の向こう。」
レナの口が動く。
けれど、声が届かない。
まるで夢の中で会話しているようだった。
ノアが肩越しに合図をする。
“無音層”だ、と唇で読めた。
私はうなずく。
アルマが少しおびえた目で手を握ってくる。
その指先はあたたかいのに、鼓動がない。
街は、まるで止まった劇場のようだった。
広場には人の形をした影が並び、みな空を見上げたまま動かない。
その瞳は灰色で、何も映していない。
レナが端末を開こうとした瞬間、光が消えた。
通信装置も働かない。
ノアが周囲を見回し、義肢の関節を鳴らす。
――金属音が、響かない。
「……音が、全部……。」
自分の声が出ないことが、こんなにも怖いなんて知らなかった。
喉を動かしても、世界に波紋が生まれない。
沈黙が、重さを持ってのしかかる。
そのときだった。
アルマが、何かを見たように目を見開いた。
彼女の唇が、ゆっくり動く。
『……いる。』
声は聞こえなかった。
でも、心に直接響いた。
『“喰う音”が、ここにいる。』
風が動いた。
いや、風の“形”をした何かが。
灰色の霧が、広場の中央でうねり、
次の瞬間、人の輪郭を作り出した。
髪のない顔。
唇も、耳もない。
ただ、胸の奥で何かが鼓動している。
「……これが、音喰い。」
レナの声が、かすかに戻ってきた。
世界が少しだけ呼吸を取り戻したのだ。
ノアが剣を構える。
金属の軋みが、わずかに音を取り戻す。
それだけで、心臓が鳴るようだった。
「撃つな。まず、話を。」
レナが制止する。
音喰いは、ゆっくりと首を傾げた。
「……人間?」
低く、震える声。
それが空気を通した最初の“音”だった。
「あなた、名前は?」
レナの問いに、音喰いは答えず、
代わりに胸の奥を押さえた。
「名前……あった。けど……忘れた。
みんな、音をくれなかった。
だから、奪った。」
声が、悲鳴みたいに途切れた。
「奪う……って、どういう……」
ミナの言葉が途切れる前に、空気が裂けた。
音喰いの体から、白い波紋が走る。
ノアが即座に前に出て、金属の腕で衝撃を受け止めた。
空気がねじれ、風が逆流する。
レナの端末が光り、結界が張られる。
「防御展開。……これ以上近づいたら、意識が削られる!」
「削られる……?」
「この街の“音”=記憶よ。声を失った人間は、思い出を奪われてる。」
その言葉が、雷みたいに胸に落ちた。
思い出を、奪われる。
この沈黙の街は、その“喪失の残響”でできている。
アルマが一歩、前に出た。
「もうやめて……あなたは、本当は“喰いたくなんて”ないんでしょう?」
音喰いがわずかに震えた。
「わたしは……空っぽ。
誰かの声で、埋めたかった。」
「じゃあ、返して。」
ミナが胸を押さえながら言う。
「奪った“音”を、みんなに返そう。」
「できるのか?」
レナが呟く。
「わからない。でも、焙煎の香りが言ってる。
“音も、匂いも、誰かの心がつくる”って。」
ノアが頷いた。
「火を起こせるか?」
「……やってみます。」
ミナは小さな焙煎袋を取り出し、掌の上で豆を転がす。
淡い光が灯る。
音喰いの体が、反応するように揺れた。
「なに……その光……。」
「“心を焙く”火。」
ミナが静かに微笑む。
「音を生み出すのは、風じゃなくて、人。」
光が強くなる。
焙煎の香りが広場いっぱいに広がった。
その瞬間、静寂がひび割れた。
風が吹く。
遠くで鐘の音が鳴った。
ひとり、またひとり、灰色の影がまばたきをする。
「……声が、戻ってる……!」
レナが驚く。
音喰いの体から、白い煙のようなものが立ちのぼる。
「もう……聞こえる。……ありがとう。」
その声が消えると同時に、
音喰いの姿は光の粒になって空へ溶けた。
静けさが戻る。
けれど、もう恐ろしい沈黙じゃなかった。
草の音、靴の音、人の息づかい――それらが少しずつ蘇っていく。
アルマが空を見上げる。
「……風が、笑ってる。」
「ほんとだ。」
ミナも微笑んだ。
「記録に残しておくべきね。」
レナが端末を再起動しながら呟く。
「“喰う音”は敵ではなく、記憶を求める残響体。」
「……名前、つけましょうか。」
「つける?」
「もう“喰う者”じゃない。……“返す者”だよ。」
ノアが笑った。
「うまいこと言うな。言葉が音を直す、か。」
ミナは焙煎袋を握った。
香りがまだ温かい。
「ねぇ、アルマ。」
「なに?」
「今の風の音、どんなふうに聞こえる?」
アルマは目を閉じて、少し考えた。
「やさしい匂いのする声。……あなたの声に似てる。」
ミナは少しだけ照れ笑いした。
「それなら、きっと大丈夫。」
風が通り抜ける。
その音は、まるで新しい旋律の始まりみたいだった。
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