第十二章

 最初にやって来たのは真白の両親だった。

 母親は真白より少し小柄で、同じ銀色の髪を持っていた。父親は背が高く、表情は厳格だが、目には不安が宿っていた。二人とも驚くほど冷静に、しかし明らかな緊張感を持って会議室に入ってきた。


「真白……」


  母親がそう呼びかけたとき、彼女の声にはわずかな震えがあった。

 次に到着したのはほのかの家族。父、母、そして弟。彼らは一様に形式的な笑顔を浮かべていたが、その目は周囲を警戒するように動いていた。特にほのかの父親は、まるで取引相手を評価するかのような眼差しで部屋を見渡した。


「ほのか! 元気そうで何よりだわ!」


 母親は社交的な声で言った。それはテレビカメラの前で話すときと同じ声だった。

 最後に到着したのは柚の母親。一人だった。彼女は明らかに震える手を隠そうとしながら、ドアから柚を見つけると、顔を伏せるように視線を落とした。


「柚……」


 震える声で、彼女はそれだけを言った。

 緊張感が部屋全体を満たす中、社長が声を掛けた。


「皆さん、座ってください。彼女たちには、皆さんに伝えたいことがあります」


 テーブルを囲んで全員が席に着くと、真白が立ち上がった。


「まず、みなさんに伝えたいのは……私たちが失踪した理由です」


 真白は静かな声で、あの夜のことを語り始めた。運転手に変わった男、放たれた煙、そして目覚めた白い部屋のこと。続いてほのかが「塩化」のプロセスについて説明し、柚が闇の美術館について語った。

 話が進むにつれ、家族たちの表情は驚愕から不信へ、そして恐怖へと変わっていった。


「待ってくれ」 真白の父が声を上げた。

「そんなSF映画のような話を本気で信じろと?」

「信じられないのは当然です」 真白は静かに言った。


 そして、彼女は自分の腕をまくり上げた。皮膚の下で、塩の結晶がかすかに光を放っていた。ほのかと柚も同様に、自分たちの体に残る塩の痕跡を示す。


「これが……証拠です」


 部屋が静まり返る。


「まさか……」 ほのかの母が息を呑む。


 その瞬間から、場の空気が変わり始めた。家族たちは三人の話に耳を傾け、徐々に恐怖と驚きを受け入れ始める。


「聖像……塩の柱……」 柚の母親がつぶやいた。

「あなたはそんな恐ろしいことを……」


 彼女の声が震え、涙があふれた。そして三人は、自分たちが語りたかったもう一つの真実を打ち明ける。真白は両親の前に立ち、深く息を吸った。


「お父さん、お母さん。私は……いつも自分の感情をうまく表せなくて、ごめんなさい」


 彼女の声が少し震えていた。これまで見せたことのない感情が、その表情に現れていた。


「寂しかった。理解してもらえなくて、すごく寂しかった。でも、それを言葉にすることができなかった」


 真白の母親の目に涙が浮かんだ。同様に、ほのかも家族に向き合い、強がりの裏にあった恐怖と孤独を吐露した。


「本当は怖かったの。いつも強くないといけないって思ってた。誰かに頼ると、見捨てられると思ってた」


 柚は母親の手を取り、静かに話し始めた。


「お母さん、私はいつもあなたのことを心配してた。でも、それを言えなかった。私がいなければよかったって思わせてしまったから」


 涙があふれ、言葉が途切れる。徐々に家族たちも心を開き始めた。真白の父は長い沈黙の後、声を絞り出した。


「私たちは……あなたを理解しようとしていなかった。自分たちの理想の娘であってほしいと思っていた」


 ほのかの母は震える声で告白した。


「あなたを商品のように扱っていた。本当に申し訳ない……」


 柚の母は涙にむせびながら言った。


「酒をやめる。必ず。あなたのために、私のために」


 感動と和解の空気が部屋を満たす中、三人は立ち上がり、それぞれの家族へと歩み寄った。


「これでやっと……幸せになれたんだね」


 真白の目には塩の混じった涙が、塩に覆われた爪が、塩そのものとなりつつあった体が煌びやかに輝いていた。


 ……。


 しかし――……輝きは祝福ではなく、呪いだった。


 真白が両親を抱きしめようと腕を広げた瞬間だった。

 彼女の指先から、かすかな光が漏れ出した。真白が母親に触れた瞬間、母親の表情が凍りついた。


「お母さん!?」


 声が震える。そして、恐ろしい変化が始まった。

 母親の皮膚が白く変色し、硬直していく。まるで塩の結晶に覆われていくように、彼女の体が変化していった。


「やめろ! やめてくれ!」


 父親が叫ぶが、彼もまた真白に触れた途端、同じ変化が始まった。二人の体が完全に塩の像と化すまで、数秒とかからなかった。


「嘘……嘘でしょ……」


 真白の声が震える。

 振り返ると、ほのかと柚も同様の恐怖に直面していた。ほのかの家族全員が、硬直した塩の像となり、柚の母親もまた、娘に手を伸ばしたまま結晶化していた。


「なんで……なんで!?」


 ほのかの叫びが部屋に響く。その時、部屋の隅から静かな拍手が聞こえた。アンゼル・オルバイムが、微笑みながら姿を現した。


「素晴らしい。本当に素晴らしい」

「お前――!」 ほのかが怒りに震えながら振り向く。

「想定外の事が発生しています」 アンゼルは静かに言った。

「すべては、あなたたち自身の力です」


 三人の前に立ち、アンゼルは穏やかに説明を始めた。


「塩化の逆転は完全ではありませんでした。あなたたちの体内に残る塩の結晶は、特殊な性質を持っています。強い感情の共鳴が起きたとき、それは周囲の人間を塩化する力となる」

「嘘だ!」 ほのかが叫んだ。

「現実です」 アンゼルは首を振った。

「あなたたちは塩の使徒となったのです。知らぬうちに、周囲の人間を塩へと変えていく存在に」


 真白は震える手で、塩となった母親の頬に触れた。冷たく、硬く、生命を感じさせない触感。


「戻せるの?」


 真白の声は小さかった。アンゼルは静かに首を振った。


「この変化は不可逆です。彼らの意識も、すでに結晶構造の中に閉じ込められています」


 柚が膝から崩れ落ちる。


「わたしたちは……もう人間じゃないの?」

「それは違います」 アンゼルの目は奇妙な光を帯びていた。

「あなたたちは私の予想をはるかに超えた存在です。私が追い求めていた完璧な聖像ではなく、創造と破壊の力を宿した新たな存在へと進化したのです」


 ほのかの怒りが爆発した。


「戻せ! 全部元通りにしろ!」


 彼女がアンゼルに飛びかかろうとした瞬間、彼女の指先から強烈な光が放たれた。アンゼルの体に触れた途端、彼もまた塩化が始まった。


「主よ、サラよ。あなたに感謝いたします。私が想像するよりはるかに美しいものを、あなたはお与えになさった――……!」


 アンゼルは笑みを浮かべたまま、完全に塩の像と化した。部屋の中、唯一生き残った社長が恐怖に震えながら、ドアへと後ずさりしていた。


「た、助けて……」


 柚が気づき、叫んだ。


「社長、逃げて! 私たちに触らないで!」


 だが遅かった。ドアノブを掴んだ社長の手が、ほのかの怒りによって放たれた塩の粒子に触れた。彼女もまた、恐怖の表情を浮かべたまま塩と化していった。

 部屋には三人だけが残された。周囲にはかつての家族が、塩の像として凍りついていた。


「どうして……」 真白の声が震えていた。


 ほのかは膝を抱えて震え、柚は母親の像に寄り添い、静かに泣いていた。三人の体からは、さらに多くの塩の結晶が漏れ出し始めていた。

 やがて、三人は立ち上がった。

 互いを見つめる目には、恐怖と悲しみと、そして決意が混ざっていた。


「もう戻れない」 真白は静かに言った。

「今……すべてが終わった」


 柚が窓の外を見つめた。海は静かに小さな波を立て続けていた。


「そっか、海だけは」

「私たちを受け入れてくれる」

「行こうか」


 三人は頷き合った。ホテルを出る頃には、彼女たちの足跡は塩の結晶で白く輝いていた。人間には遭遇しなかった。ただ、人間の形をした塩の像と遭遇するだけだった。

 外に出ると、街全体にも変化が広がり始めていた。風に乗って運ばれた塩の粒子が、次々と人々に触れ、塩化を引き起こしていく。

 三人は誰にも触れないよう注意しながら、浜辺へと向かった。夕暮れの海は、赤く染まっていた。波の音だけが、静かに三人を迎えた。


「私たちは……誰かのものではなかった」真白が静かに言った。

「自分のものでさえ、ないんだ」

 彼女の体は半分以上が塩の結晶に覆われ、人間の形をかろうじて保っていた。


「真白、柚……ありがとう」ほのかが微笑んだ。

「二人といた時は本当の自分でいられた」

 彼女の髪は完全に結晶化し、顔の半分も塩に変わっていた。


「もう……いいよね」柚のかすれた声。

「みんなと一緒に、いられるから」

 彼女の両腕はすでに塩となり、胸元まで結晶が広がっていた。


 三人は手を取り合い、波打ち際へと歩み始めた。

 最初の波が足元を濡らした瞬間、塩の結晶は溶け始めた。痛みはなかった。むしろ、心地よい解放感があった。

 三人の体から溶け出した塩は、海水と混ざり、白い光を放ちながら沖へと広がっていく。

 次の波が彼女たちの膝まで達し、さらに結晶が溶けていく。三人の意識は、徐々に拡散していった。個としての記憶は薄れ、三つの魂が混ざり合うように一つになっていく。

 最後の波が三人を包み込み、完全に海へと溶けていった瞬間、純白の光が世界へ放たれた。

 真白の目に映ったのは、遠くの街が白く輝いていく光景だった。彼女たちから始まった塩化の波が、世界中に広がっていく。


 まず最初に、真白たちのいたホテル周辺二十キロメートルが立ち入り禁止区域となった。それでもなお、人々はおろか家畜、野生生物は突如として塩の柱と化していった。

 国内政府はやむなく外出禁止令を出し、塩化を防ぐ方法を必死で議論した。しかし塩化に詳しいであろうアンゼル率いる組織の研究員は皆、自らの意思で塩の柱になっていた。海外の国々でも塩化現象の報告が寄せられ、世界中の陸、海、空までが塩に覆われていく。

 地下シェルターに避難した残り少ない人類は悲惨な運命をたどった。数十年は持つと言われていた食料が僅か数か月で尽き、そこからは暴力、内乱、紛争の嵐がシェルターの中に吹き荒れた。

 最終的には塩の粉末がシェルターの隙間を通って中に入り込み、中にいた人類をすべて塩に変えた。数十万年もの間隆盛を極めた人類は一年足らずで滅亡した。

 地球は青い惑星から白い惑星と化した。それは紛れもなく塩によるものだった。人々も、動物も、植物も、地球そのものさえも、すべてが塩の像となった。


 それからさらに数十万年の時を経て、塩に覆われた惑星には新たな動きが生まれていた。

 結晶構造の中から、新たな生命体「塩素系生物」が誕生し始めたのだ。それらは半透明の結晶体でありながら、知性を持ち、かつての世界の記憶を共有していた。

 新たな文明の中では、「海の記憶」という歌が神聖な歌として歌い継がれていた。それは三人の意識の中で生まれ、塩の結晶を通じて全ての生命に共有された旋律だった。

 塩の惑星の中央には巨大な神殿が建てられ、その中心には三人の少女が手を取り合う像が置かれていた。「創造主」として崇められる三人の姿は、かつてのRe:Vailそのものだった。

 夜になると、塩の結晶でできた塩素系生物たちは神殿に集まり、創造主への祈りを捧げる。その祈りの中で、彼らはいつも同じ言葉で締めくくる。


「夜明けの海を見に行こう 二度と戻らない あの場所から」


 あらゆる塩素系生物が、リズムを打ち始める。


「誰かの聖像じゃない 本当の私になるために」


 宇宙に浮かぶ白い惑星は、星々の間で静かに輝きながら、Re:Vailの記憶を永遠に伝え続けていた。


 今まさに、聖像は砕かれたのだ。

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Re:Veil / 誰が聖像を砕くのか 木村希 @kimurakkkkk

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