第十章
真白、ほのか、柚。三人は再び並び立っていた。 それぞれが違う傷を持ち、違う恐れに沈み、それでもいま同じ地面に立っている。
彼女たちの周囲には、幾重もの円が広がっていた。 それは、塩が砕け散る際に残した残響。 痛みと希望の交錯する、精神の記録だった。
「私たち……もう、ここにいられないね」
柚の呟きに、真白が頷く。
「うん。ここは終わりの場所。けど——」
「私たちは、始めるために来た」
ほのかが、真白の言葉を引き継ぐように言う。三人の中心に、再び光が集まり始める。 それは出口でもあり、入口でもあった。次に目を覚ましたとき、彼女たちの世界は、きっと変わっている。
まばゆい閃光のあと、静けさが訪れた。研究者たちの動きは止まったまま、誰一人として息を呑むことすらできなかった。
少女たちはいた。けれどもう"塩の像"ではない。人間としての温度。 生きているという確かな気配。その場にいる全員が、はっきりとそれを感じ取っていた。
「素晴らしい……」
アンゼルは静かに歩み寄る。彼の声には、もはや研究者としての冷静さはなかった。 代わりに、純粋な感嘆と、どこか寂しげな諦めが混じっていた。
「それもまた、一つの芸術です」
扉が、静かに開いた。
最初に立ち上がったのは真白だった。続いてほのか、そして柚が、少しぎこちなくも確かに、足を床に下ろした。
三人は視線を交わす。そして、無言で頷いた。
塩に還ることを拒み、ただの聖像であることを拒んだ。もう誰の理想でもない、自分たち自身として。そして、もう誰かの所有物として美術館に飾られることも拒んだ。
彼女たちは、歩き出した。
重い空気のなかで、足音だけが確かに響いた。周囲には他の塩像たちが並び、静かに彼女たちを見送るかのようだった。
アンゼルは彼女たちの前に立ちはだかることもなく、ただ静かに見守っていた。三人が美術館の出口に向かうとき、彼はやっと声を発した。
「あなたたちが望んだのは、自由ですか? それとも、真実ですか?」
真白が立ち止まった。振り返ることなく、静かに答える。
「どちらでもない……記憶だと思う」
アンゼルはその意味を考えるように、わずかに首を傾けた。
「私は、あなたたちを永遠に保存するつもりだった。感情の脆さも、痛みも、すべて結晶化して――」
「だけど」 ほのかが言葉を継いだ。
「私たちは、壊れたくなかったんだ。固まったままじゃなくて、変わりたかった」
「あなたの言う永遠は、時間が止まること」
柚が振り返って、初めてアンゼルの目を見つめた。
「でも、わたしたちは、流れていきたい」
アンゼルは何も言えなかった。言葉よりも先に、微かな笑みが彼の顔に浮かんだ。
「サラも……同じことを言っていたかもしれませんね」
それが最後の言葉だった。
三人は歩き続けた。廊下を、階段を、そして最後の扉をくぐる。
外の世界は、驚くほど明るかった。満月が入り口を照らしていた。鳥の声。風の音。遠くの車のエンジン音。すべてが新鮮で、すべてが美しく聞こえた。
「どのくらい……時間が経ったんだろう」 真白がつぶやく。
「三日ぐらい……かな、自身ないけど」 ほのかが空を見上げた。
「ほら、まだ月が見えるよ。あの形、ライブの日と変わってない」
柚が周囲を見回す。施設は山の中腹に建っており、遠くには街の光が見えた。
「わたしたち、どうやって帰ろう?」
その問いに、ほのかが意外な答えを返した。
「帰るのは、もう少し後でもいいんじゃない?」
真白と柚が驚いて彼女を見る。
「ほら、すぐに帰ったら、また聖像に戻っちゃうでしょ?」
ほのかが手を振りながら言う。
「もう少しだけ、私たちでいよう。誰の期待も背負わないで、ただ、私たちとして」
真白は、初めて本心からの笑顔を浮かべた。それは小さいけれど、確かな笑みだった。
「うん……そうしよう」
三人は山道を下り始めた。どこに向かうのか、まだ決めていない。ただ、一緒に歩くということだけは、決まっていた。
だが、その喜びの中にも、違和感はあった。
真白が立ち止まり、自分の右手を見つめた。月の光の下で、その指先がかすかに白く光っているように見えた。
「……大丈夫?」ほのかが心配そうに尋ねる。
「うん……」真白はそっと手を握りしめた。
「少し、冷たいだけ」
三人は再び歩き始めたが、それぞれの心に小さな不安が芽生えていた。
Re:Veilの失踪は大きなニュースとなっていた。朝のテレビでは連日、三人の写真が映し出され、様々な憶測が飛び交っていた。
「人気アイドルグループRe:Veilの失踪から一か月。警察は本格的な捜査を依然として続行していますが……」
駅舎に設置された小さなテレビを、真白、ほのか、柚の三人が遠くから見ていた。
三人とも帽子を深くかぶっており、誰も彼女たちに気づかなかった。運よく駅付近で営業していた個人経営のコンビニで購入したのだ。
「一ヶ月…?」ほのかが驚いた声を上げる。
「三日じゃなかったの?」
「だから月が同じ形をしていたんだね」真白がつぶやく。
「時間の感覚が……あの中では違ったんだ」
「なんだか変な感じだね」 柚が言った。
「自分のことなのに、他人事みたい」
「もう少しだけ」 真白が小さく言う。
「もう少しだけ、私たちの時間を……」
三人は無言で頷き合った。そして、プラットフォームに入ってきた電車に乗り込んだ。
窓の外の景色が流れ始める。海辺の小さな町へと向かう列車の中で、彼女たちは初めて、過去とこれからについて語り合った。
「最初に事務所に呼ばれたとき、ほんとに怖かったんだよね」柚が懐かしそうに言う。
「私なんかでいいのかなって」
「私は怖くなかったよ」ほのかがちょっと威勢よく言って、すぐに照れたように笑う。
「……嘘。めちゃくちゃ緊張してた。つっぱってるだけで、内心はガタガタ」
「私は……」真白はしばらく考えてから、言った。
「期待されてるのがわかった。でも、何を期待されてるのかはわからなかった」
「今ならわかる?」 柚が静かに尋ねる。
真白はゆっくりと首を横に振った。
「今でもわからない……でも、それでいいと思う。私は、私のために歌うから」
車窓の外で、朝日が海面に反射して、まばゆい光の道を描いていた。そのとき柚は、自分の鏡像が窓ガラスに映るのを見て、息を飲んだ。一瞬、彼女の顔が塩の結晶のように白く輝いたように見えたのだ。
海辺の町は、思ったよりも静かだった。観光シーズンも終わり、人通りの少ない通りを三人は歩いていた。
安い民宿を見つけて、そこに落ち着くことにした。主人の老婆は、特に彼女たちの素性を詮索することもなく、三人で一部屋を貸してくれた。
「ありがとうございます」 柚が頭を下げると、老婆は優しく微笑んだ。
「若い子たちが旅するのは、いいことだよ。何かから逃げてるのか、何かを探してるのか知らないけど」 老婆は言った。
「ここにいる間は、ゆっくり休むといい」
部屋は質素だったが清潔で、窓からは海が見えた。夕暮れの海に沈む太陽が、水平線を赤く染めていた。
「きれい……」 真白がつぶやく。
「ねえ」 ほのかが、急に思いついたように言った。
「砂浜に行ってみない?」
「いいね! 行こう!」柚の顔が明るくなる。
三人は荷物も置かずに、そのまま砂浜へと向かった。
風が強かったが、それが心地よかった。裸足になって砂の感触を楽しむ。冷たい波が足首をなでる。
塩辛い海の香りが、彼女たちの肺を満たす。
「なんだか、すごくバカみたい」ほのかが突然、笑い出した。
「どうして?」 柚が尋ねる。
「だって、私たち、すごく有名になったのに。ファンもいて、握手会もやって……なのに、今はこうして誰にも気づかれず、砂浜を走り回ってるなんて」
「でも、これが本当の私たちなのかもしれない」真白も、小さく笑った。
「そうだね」 柚が頷く。
「わたし、この感じ、好き」
ほのかが腕を広げて深呼吸をした。
「そういえば、塩の像になったとき、みんな何を見た?」
「自分自身と向き合ってたかな。今まで感じたくなかった感情と」真白が少し考えて答える。
「お母さんと……それから、小さいときの自分」 柚が膝を抱えて座る。
「私は仮面だらけの自分と踊ってた」 ほのかが言う。
「全部壊して、本当の自分を見つけるまで」
三人は沈黙に包まれた。波の音だけが、その静寂を満たしていた。
「でも、不思議だよね」 柚がふと言った。
「私たち、死んでたのかな? それとも、夢を見てただけ?」
真白が海を見つめながら答えた。
「きっと、どちらでもない。私たちは……生まれ変わったんだと思う」
「それなら」 ほのかが立ち上がる。
「改めて、『初めまして』しよう!」
彼女は、まるで自己紹介をするように、両手を広げた。
「初めまして! 朝倉ほのかです。強がりで、弱くて、でも踊るのが好きです。よろしく」
柚も立ち上がり、少し照れながらも後に続いた。
「水瀬柚です。人に合わせるのが得意だけど、これからは自分の気持ちも大事にします。よろしくお願いします」
最後に真白が静かに立ち上がり、二人を見つめた。
「花隈真白です。感情の表し方がわからないけど……感じることはできます。これからも、一緒にいてください」
三人は互いを見つめ、そして、笑った。その笑顔は、塩の像のときのように完璧ではなかった。少し歪んでいて、少し滑稽で、でも、それこそが本物だった。
その夜、民宿の部屋で、三人は将来について話し合った。
「いつか、帰らなきゃいけないよね」 柚が天井を見上げながら言う。
「うん」 真白も頷く。
「でも、同じようには戻れない」
「戻りたくない」 ほのかがきっぱりと言った。
「あんな風に、自分を偽って生きるのは、もう嫌だ」
「じゃあ、どうする?」 真白が尋ねる。
部屋に沈黙が降りる。やがて、柚が小さな声で言った。
「わたしね、考えてたんだ。もし戻るなら……本当の私たちで歌いたい」
「本当の、私たち?」 ほのかが繰り返す。
「うん。仮面をかぶらないで、飾らないで。ありのままの私たちで」
「でも……事務所が許してくれるかな」真白は少し考えてから、言った。
「許してくれなかったら」 ほのかが言う。
「独立すればいい。最悪、辞めてもいい」
「辞める?」 柚が驚いた顔をする。
「だって、私たちは塩の像から戻ってきたんだよ?」
ほのかの声が強くなる。
「もう、何も怖くないよ」
真白はベッドに腰掛け、静かに窓の外を見た。月明かりが海面に反射して、銀色の道が描かれている。
「実は、私……思いついたメロディがあるんだ」
「え?」 二人が同時に振り向く。
「あの部屋で、あの塩の中で……聴こえた音」
真白はゆっくりと口ずさみ始めた。それは単純だけれど、どこか心に響く旋律だった。
柚が目を閉じて聴き、そっと言葉を乗せる。
「夜明けの海を見に行こう 二度と戻らない あの場所から」
ほのかが、リズムを手で打ち始める。
「誰かの聖像じゃない 本当の私になるために」
自然と、三人の声が重なっていく。旋律も言葉も初めてなのに、まるで昔から知っていたかのように響き合う。
その瞬間、彼女たちは確信した。これが、自分たちの本当の「声」だということを。
同時に、ほのかは自分の手がリズムを打つ度に、わずかに白い粉が舞うことに気づいた。それは砂のようだったが、光を反射すると、塩の結晶のようにも見えた。
彼女は何も言わず、ただ歌い続けた。
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