第九章
表向きは、Re:Veilの事務所も彼女たちの失踪に懸命に対応していた。記者会見では社長自ら涙ながらに彼女たちの無事を祈り、大規模な捜索を指示したと発表した。
しかし真実は、まったく異なるものだった。 事務所の隠し部屋。社長は電話で静かに話していた。
「はい、予定通り三人の『引退』プロセスは完了しました。公式には行方不明ということで、捜索は形だけ続けます」
彼は窓の外を見やりながら続けた。
「次のユニットはすでに準備が整っています。Re:Veilの失踪騒動が落ち着いたら、デビューさせましょう。今回は『より長持ちする』メンバー構成にしました」
電話の相手はアンゼルではなかった。もっと上位の存在「パトロン」の一人だった。
「ええ、彼女たちの『作品化』は大成功だったと聞いています。私も鑑賞会を楽しみにしております」
Re:Veilの担当である女性マネージャーだけは事情を知らされていなかった。彼女は三人の突然の失踪に本当に困惑し、心配していた。マネージャーはSNSで「必ず見つけます」と誓い、ファンと一緒に街頭での捜索活動も企画していた。
だが社長の指示で出張を命じられ、事態の核心から遠ざけられていた。 アイドル業界の闇は、アンゼルの美術館よりもさらに深く、広がっていたのだ。
――闇の美術館の中央ステージで、塩の柱に最初の亀裂が走った。
それは静かで、けれど確かな音だった。氷が割れるような、高く澄んだ音が、密閉された施設の空気を微かに震わせた。
展示を見ていた数人の来訪者が驚きの声を上げ、警備員が慌てて連絡を取り始めた。
観察装置にアラートが走る。カプセルの周囲を取り囲んでいた白衣の研究者たちが、次々に端末に駆け寄った。
「……被験体1、内部反応あり。精神領域で異常な活動パターンを検出」
「塩結晶、自己崩壊を始めています!」
彼らの動揺の中心には、花隈真白の塩像があった。
その胸元、ちょうど心臓の位置に、淡い光が灯っていた。
「これは……前例のない現象です」
主任研究員が震える声で言った。
「結晶構造が内側から崩壊しています。まるで、被験体自身が塩化を拒絶しているかのようです」
「なるほど……」
アンゼルの声は冷静だったが、わずかに動揺を含んでいた。
「過去の実験ではすべて、完全な固着状態に至っていたはずです」
「しかし、データは明確です」別の研究員が報告する。
「被験体内部から異なる周波数の波動が発生しています。これは……まるで連鎖共鳴のような……」
監視装置のモニターには、三人の塩像内部で起きている驚異的な現象が数値化されて表示されていた。結晶構造の共鳴周波数が三つの異なるパターンで振動し、それらが徐々に同期していく様子が見て取れた。
アンゼルは静かに真白の塩像に近づいた。
「塩化のプロセスには二つの段階があります。身体の結晶化と精神の固定化。通常、精神は自己崩壊の恐怖から逃れるために『凍結』し、美しい像として保存されます」
彼の顔には、恐怖と期待が入り混じったような表情が浮かんでいた。
「しかし彼女たちは......むしろ恐怖の中で自己を統合しているようです。結晶化した自己意識が融合し、内側から再構築を始めているのです!」
通常、結晶構造に閉じ込められた意識は外部からの観察のみが可能で、内部からの変化は起こりえない。しかし三人は、互いの精神パターンを共有することで、新たな「自己」を再構成していた。それは結晶構造の物理的制約を超え、量子レベルでの再編成を引き起こしているのだ。
つまり……塩化の本質は「静止」であるはずだった。だが、彼女たちの内部では「動き」が生じている。これは単なる物理現象ではなく、精神と物質の境界を超えた奇跡であった。
「彼女たちは、人間の境界線を越えつつあるのです......」
真白は、再びステージに立っていた。 だが今度は「誰もいない観客席」に背を向け、ステージの外を見ていた。
そこには、かつての彼女自身がいた。 泣き出しそうな顔。言葉を失った声。笑顔を貼りつけて、それでも「感情がない」と揶揄されていた頃の自分。
真白はそっと、手を差し出した。もうひとりの真白が、その手を取る。
「もう、いいよ」
自分にそう言ってあげることが、これほど難しいとは思わなかった。 けれど、いまなら言える。
「ちゃんと、痛かったんだよね。ちゃんと、つらかったんだよね」
その声に応えるように、もうひとりの真白が涙をこぼした。そしてふたりは、静かにひとつに重なっていった。
遠くからは、かすかに声が聞こえる気がした。 ほのかと柚の、そして彼女たちを閉じ込めたアンゼルの声。
真白の中で、小さな光が点り、やがて、全身を包み込むように大きくなっていった。
「私は……もう一人じゃない」
その言葉と共に、彼女の周りの空間が、ゆっくりと崩れていった。
塩の柱が、内側から崩れていく。表面がひび割れ、粒子がきらきらと散る。 それは破壊ではなく、解放のようだった。
「純粋な聖像になったはずなのに」 アンゼルが呟いた。
「いや、純粋な聖像になった『から』なのでしょうか?」
やがて光の中から、息を呑むような気配とともに、ひとりの少女が姿を現す。花隈真白。 その身体は傷ひとつなく、ただ静かに、目を閉じたまま立っていた。まるで、最初からそこに在ったかのように。
真白はゆっくりと目を開いた。 その瞳はかつてないほど透明で、同時に深みがあった。 彼女は自分の手を見つめ、それから静かに息を吸い込んだ。
「私は……ここにいる」
そのシンプルな言葉に、周囲の研究者たちは言葉を失った。
アンゼルだけが、静かに彼女に近づこうとした。
「真白さん……あなた、どうやって?」
その問いに、真白は答えなかった。 代わりに、彼女はゆっくりと視線を隣の塩柱に移した。次の塩柱が、震える。
朝倉ほのか。彼女の解放もまた、始まろうとしていた。
ほのかは、暗闇の中で拳を握っていた。 目の前には、自分の顔をした「何か」が並んでいる。 無表情で、機械のように完璧な動きを繰り返す自分。 ステージに立ち、笑い、踊り、ファンに手を振る。
「それでいいじゃないか。誰もお前の中身なんて求めちゃいない」
幻影のひとつが言う。 もうひとつが、嗤うように囁く。
「お前の弱さを知ったら、みんな離れていくよ」
ほのかは歯を食いしばった。
「だったら、全部ぶっ壊してやるよ」
叫びとともに、彼女は駆け出した。 幻影のひとつひとつに拳を叩きつけていく。
仮面が割れる。 笑顔が砕ける。
叫び、殴り、壊し、また叫ぶ。
「私の中には、弱さも怒りも、情けなさもちゃんとあるんだよ!」
それは、初めて仮面をつけていない朝倉ほのかの声だった。すべての幻が砕け、暗闇の奥にひとり、怯えた少女がいた。 それは、まだ何者にもなれていなかった頃の自分。
ほのかは、そっと手を差し伸べた。
「ごめんね。ずっと、置き去りにしてた」
小さな手が、指先に触れた瞬間——ほのかの塩の柱に、無数のひびが走った。
施設の監視室では、再び警告音が鳴り響く。
「被験体2、構造崩壊が始まりました!」
「予測より速い……これは連鎖的な共鳴反応です!」
アンゼル・オルバイムは、モニターの前に立ったまま、微動だにしなかった。
「……美しい。崩壊の連鎖ではありません、これは自己回帰の連鎖です」
塩の柱が砕け落ちる。 中から現れたのは、髪を振り乱したまま、息を切らせて立ち尽くす少女だった。
朝倉ほのか。 その瞳には、かつてなかった「怒りと愛しさ」が同時に宿っていた。彼女が真白の元へと一歩を踏み出し、その手を握った瞬間、第三の柱が、淡く光り始める。
水瀬柚は、白い部屋の中で静かに座っていた。膝を抱え、背を丸めたその姿は、あまりにも無防備だった。
「わたし……このままで、いいのかな」
自問する声は、誰に届くこともなく空間に吸い込まれていく。
でも、その静けさの中に、誰かの足音が響いた。見上げた先には、笑顔のまま涙を浮かべた少女がいた。
かつて、自分を許さなかった柚が、いま目の前に立っていた。彼女は、静かに手を差し出した。柚は、その手に、そっと触れた。
それだけで、世界がやさしくきしむような音を立てた。
幼い柚の顔が、少しずつ変わっていく。 涙は乾き、眉間のしわは消え、小さな笑顔が浮かぶ。
「わたしはね、ずっと思ってた」 幼い柚が言う。
「わたしのせいでお母さんが苦しんでるって」
柚は静かに首を振った。
「違うよ。誰のせいでもなかったんだ」
「でも……」
柚は小さい自分を抱きしめた。
「わたしは、わたしを責めなくていい。わたしは、わたしが好き」
その言葉が、空間全体に波紋を広げるように広がっていった。
塩の結晶が、再び軋んだ。
水瀬柚の身体を包んでいた塩柱に、柔らかなひびが走る。 それはまるで、冬の窓ガラスに射し込んだ朝の陽光のように、冷たさの中に微かな温度を孕んでいた。
観察装置が静かに点滅し、研究者たちが息をのむ。
「被験体3、精神活動にて明確な覚醒兆候……」
そのとき、警告音が止まった。 それまで鳴り響いていた無機質な機械音が、ぴたりと沈黙する。
静寂。アンゼル・オルバイムはその奇跡を見つめていた。
「——やはり、この少女が最後の鍵ですか」
十五年以上前。かつて、自身が初めて出会ったアイドル。田舎からやってきた典型的な少女だったが、完璧な容姿と献身性を備え、才能があり、純粋で、誰よりも懸命に努力し、すべての期待に応え続けた少女。
だが徐々に、彼女は変わっていった。ファンからの過剰な期待、会社からの絶え間ない要求、そして何より自分自身への苛烈な批判。毎晩、泣きながら練習する彼女の姿を、私はスタジオの監視カメラで見ていた。
「完璧でなければならない、完璧でなければ愛されない」
そうして彼女はある日、自ら命を絶った。そして発見されたとき、彼女は自室の浴槽で、真水ではなく、塩水に浸かっていた。
彼女の遺書には、アンゼルへの遺言が書かれていた。
「私が美しいと思われるのは、私が生きているからではない。私が死んで、永遠に変わらなくなったら、もっと愛されるでしょう。私は腐りたくない、変わりたくない」
人の理想像を固定化することで、その苦しみから永遠に解き放つという歪んだ信念に辿りついたアンゼル。 塩化は、純粋さの凍結であり、自己喪失の終焉だった。
しかし、彼が予想しなかったのは、その凍結の中でも意識が目覚め、つながり、そして再生することだった。
「やはり、人間の精神は美しい……」
彼の声が、静かな部屋に響く。そして、柚の塩像が崩れ始めた。
柚は、白い廊下を歩いていた。 かつては遊園地だった場所も、ステージだった場所も、いまは無数の思念が交差する空白へと姿を変えている。
彼女の足音は響かない。 けれど、確かに一歩ずつ進んでいた。
前に、ふたりの影があった。 真白と、ほのか。
ふたりは振り返り、微笑んだ。
「来たね、柚」
「遅いよ。待ってたんだから」
柚は、声もなく頷いた。
次の瞬間、世界が光に包まれた。 3人の中心に、まるで心臓の鼓動のように淡く脈打つ円環が浮かび上がる。
その光の中に、ひとつの記憶が現れた。 誰かの泣き声。 誰かの手。 誰かが、名を呼んでいる。
「——柚」
それは、自分が最も聞きたかった声だった。
塩の柱が、崩れ始める。粉雪のように舞い上がる結晶。 その中から、ひとりの少女が姿を現す。静かに立ち尽くす水瀬柚。 その顔は、どこまでも穏やかだった。
真白と、ほのかが、そっと彼女に歩み寄る。三人の手が、互いに重なる。 それは、再会の祈りであり、生還の証であった。
「第三被験体の塩化が完全に逆転しました」
「精神パターンに顕著な統合が見られます」
「これは……想定外の現象です」
監視室に再び点る警告灯。 しかし今度は、誰も動かなかった。
アンゼル・オルバイムが、静かに呟いた。
「……理想は、かくも脆く、かくも尊い、そういうものです」
彼の目には、三人の復活の瞬間がはっきりと映っていた。
人間の精神パターンを塩の粒子に記録・固定し、凍結する。 ——だが、自己受容の境地に達した場合、そのパターンは内側から再統合を起こし、再構築をはじめる。
アンゼル自身が設計した美の保存技術の中に、最も想定外だった「変化の可能性」が宿ってしまったのだ。
かつての少女の遺した「本当の私がいない」という叫び。 それに応える形で三人は、自分で在ることを選び直したのだ。
アンゼルは、壁にもたれかかると、長い息を吐いた。 初めて、ひとりの人間として—敗北の甘さを知ったような表情で。
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