第八章
――静寂。
それは音のない静けさではなかった。自分の心音すら聞こえない、世界そのものが呼吸を止めたような、圧倒的な無の中に在る沈黙だった。
闇の美術館に展示されてからここまでの時間。訪れる人々の称賛の声、彼らの感嘆の視線、全てを柚は感じ取っていた。しかし、それらは彼女の魂に届くことはなかった。
暗闇でも、光でもない。柚はただ、そこに在るという感覚だけを抱いていた。身体は重くも軽くもなく、形があるのかも分からない。
けれど次の瞬間、何かが変わった。
――声がする。
それは誰の声でもなかった。 けれど懐かしく、深く、温かい響きだった。柚は、その声を追うようにして、意識の深淵を歩き始めた。暗闇の中で、彼女は自分自身を見失いかけていた。
「わたしは……どこ?」
単純な問いに、答えはなかった。 ただ、どこか遠くから、かすかな光が見えるような気がした。柚は、その光に向かって歩み出した。 歩むというより、意識を向けるという感覚に近かった。
光は遠いようで近く、大きいようで小さかった。 その光の正体がわかるにつれ、柚の中に確かな感覚が戻ってきた。
「あれは……」
それは塩の結晶だった。 しかし、ただの塩ではない。 彼女自身の姿をした、塩の像。
柚は自分の塩像を前に立ち、じっと見つめた。 像はわずかに笑みを浮かべており、両手を胸の前で組んでいた。
「なんだか……綺麗、自分の像なのに」
素直な感想が、彼女の口から漏れた。 それは自己愛ではなく、純粋な驚きだった。そう思った瞬間、塩の像がわずかに光を放った。 まるで、応えるかのように。
どこまでも白く、果てのない大地。 その中央に、ステージのような丸い足場が浮かんでいた。そしてそこには、ふたりがいた。
花隈真白。 朝倉ほのか。
ふたりとも、衣装のまま静かに立っていた。 塩の膜などどこにもなく、傷もなく、ただ穏やかに佇んでいる。柚は、足を踏み出した。 踏み出すたびに足元に波紋のような光が広がっていく。
「真白ちゃん、ほのかちゃん……」
声に出すと、ふたりがゆっくりと振り向いた。どこか夢の中のような、でも確かに本人たちだった。
「柚……来たんだね」
真白が静かに言う。
「遅いよ、もう泣き疲れてたとこだったんだから」
ほのかが笑う。
柚は、ふたりに向かって走った。 走るという感覚も曖昧だったが、気づけば彼女は抱きついていた。
「よかった……ほんとに、よかった……」
涙が止まらなかった。 この空間で涙が流れるのかも分からなかったけど、確かに温かい何かが頬を伝っていた。それは、確かに生きているという感覚だった。
「ここ、どこなの?」 柚が尋ねると、真白が静かに答えた。
「塩の中かな。でも同時に、私たちの心の中でもある」
「三人の精神がリンクしてる感じ?」 ほのかが首をかしげる。
「たぶん、そう。私たち、繋がってるんだと思う」 真白の声は小さいながらも、確信に満ちていた。
柚は二人の手を取った。 温かい。確かな感触があった。
「ねえ、わたしたち……このままなの?」
その問いに、三人は沈黙した。
三人は、ゆっくりとステージの上に腰を下ろしていた。周囲には白い風景が広がっている。 時間も音もないはずなのに、不思議と会話は成り立っていた。
「……ここって、どこなんだろうね」
柚がぽつりと言うと、ほのかが肩をすくめた。
「さあ。死んだ後の世界? それとも、まだ塩の中で夢見てるだけ?」
真白は少しだけ考え込むようにしてから、言った。
「……でも、たぶん違う。これ、私たちの内側だと思う」
「内側?」
「うん。向き合ってなかった、怖かったものとか……自分で自分を見られなかったものとか。そういうのが溜まってた場所」
柚はふと、自分の両手を見下ろす。 かすかに光っていた。それは、塩の粒子が反射しているのではなく、彼女自身が放つ光のように見えた。
「私たち、壊れたんじゃなくて……いま、修復されてるのかな」
そう言ったとき、真白が目を細めて頷いた。
「たぶん、そう。いちど壊れて、全部さらけ出して、ようやく見える本当の自分を、少しずつ……拾い直してるんだよ」
「なんか、変な感じだね」 ほのかが苦笑いを浮かべる。
「私たち、塩の像になって、そのはずなのに……こうして話せてる」
「でもね」 柚が小さく微笑んだ。
「ここにいると、なんだか……ほっとするの」
真白が静かに頷いた。
「うん。ここは……安全な場所」
「あの男、アンゼルだっけ?」
ほのかが眉をひそめる。
「あいつの言ってた『永遠』ってのは、こういうことだったのかな」
「違うと思う」 真白は首を横に振った。
「彼は私たちを『閉じ込める』つもりだった。でも、私たちは……」
「開いてる」 柚が言葉を継いだ。
「わたしたちは、開かれてる」
「あの人たち......私たちを物としか見てない」ほのかの声は怒りに満ちていた。
「私たちの姿を見て、ただ喜んでる」柚が悲しげに言う。
「でも私たちの心は見てない」
「彼らはずっとそうだった」真白がつぶやく。
「私たちがステージに立っていた時も......彼らは見せ物として見ていた」
「だから、私たちは変わらなくちゃ」柚の声が強くなる。
「このままじゃ、永遠に彼らのもののままだよ」
「どうやって変わるの?」ほのかが尋ねる。
「私たちの中には、まだ光がある」真白が答える。
「それを使って......私たちは塩から解放されるの」
三人の間に、静かな沈黙が訪れた。 でもそれは、恐怖でも絶望でもない。
ひとつ、風が吹いた。 色のない空間に、花びらのような何かが舞った。それは、誰かが心の奥で隠していた優しさの、かけらだった。
「ここから出られたら……」真白は静かに目を閉じた。
「私は……もう一度、歌いたい」
「え?」 ほのかが驚いたように顔を上げる。
「でも、今度は……本当の気持ちで」真白の声は小さいながらも、確かだった。
「今まで、私は自分が何も感じていないと思ってた。でも、違った。感じ方が、わからなかっただけ」
ほのかはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「私も……踊りたい。でも、もう仮面なんかつけずに」
柚はふたりを見つめ、そっと頷いた。
「わたしも……本当のわたしの声で、歌いたい」
その瞬間、三人の意識がさらに強く結びついた。彼女たちの周りには、他の塩像たちの意識も集まり始めていた。
「聞こえる......?」
どこからともなく聞こえる声。それは人間のものとも、そうでないともつかない。
「私も......ここにいるの......」
美術館の壁際に並ぶ他の塩像からも、かすかに声が漏れ出しているようだった。
「新しい人......?」
「あなたたちも捕まったのね......」
「何年経ったかしら......」
「助けて......」
「どこにいるの......?」
「どのくらい経ったの......?」
「家に帰りたい......」
それらの声は弱く、ほとんど聞き取れない。だが、確かにそこにあった。
意識の深層。
三人は驚いたが、それが他の塩像たちの声だと理解した。
「ここには......他にもたくさんの人がいるの?」柚が恐る恐る尋ねる。
「ええ、たくさんよ」未知の声が応える。
「私たちはもう何年もここにいるわ。アンゼルに捕まえられた聖像たち......」
「みんな有名になりかけた子、スキャンダルで消えかけた子、ちょっと壊れかけていた子......」
「ここから出られないの?」ほのかが問いかける。
「出られないわ」声は悲しげに続ける。
「最初は抵抗したけど、やがて諦めるの。永遠に『見られる』ことだけが、私たちの役目になるわ」
三人の意識は、塩の結晶構造の中でつながっていた。そして彼女たちは、自分たちが置かれている状況をより詳しく知った。
世界中から訪れる人々の目に晒され、称賛され、そして「永遠の美」として保存されていること。
「あの人たち、わたしのこと、すごく褒めてくれる......」柚が言った。
「それって......」ほのかが言いかける。
「望んだことじゃない」真白が言葉を継いだ。
「彼らは私たちを所有したいだけ」別の声が割り込む。
「ファンだと言いながら、本当は私たちを自分のコレクションにしたいだけなの」
彼女たちは静かに考えた。称賛されることは悪くない。美しいと言われることも嫌ではない。
でも、こんな狭い空間の中で、永遠に「見られるだけの存在」でいることが、本当に自分たちの望む姿なのだろうか。
「わたしたち、こんな風に飾られるために生まれてきたわけじゃないよね」
柚の声が、塩の結晶の中で震える。
「ステージで輝くことと、ここで輝くことは違う」ほのかが言った。
「ステージなら、自分の意志で変わっていける。ここじゃ...ただの物体だよ」
「私たちは......生きたい」
真白の声は小さいが、確かだった。
「変わりたい。成長したい。それが......本当の私たちだと思う」
三人の意識が、図らずも強く共鳴する。その瞬間、塩の像の中心から、かすかな光が灯り始めた。
「あなたたち......何かが違う」未知の声がつぶやく。
「その光......私たちにはなかったもの――」
まだ小さく、弱々しい光。だが、それは確かに「生」の証だった。
地面が、静かに振動する。
三人は一斉に顔を上げた。 白一色だった空間に、ゆっくりとひびが走る。 それはまるで、卵の殻が割れるような、内側から世界を破ろうとする動きだった。
「これ……目覚めの兆候……?」
真白の声に、ほのかが立ち上がった。
「でも、どうやって? 身体はあっちじゃ塩の柱のままなんでしょ?」
「……きっと、心が先に動いて、それが伝わってくれるはず」
柚が、強く頷いた。
「だって、あんなに冷たかったのに……今は、温かい」
地面の中心から光が立ち上がる。 その中心には、三つの影があった。
彼女たち自身。塩の柱になった肉体の中に確かに残る、小さな意志の灯火。
真白が静かに手を伸ばした。 ほのかがそれを取る。 柚が、ふたりを抱くようにその手を包む。
三人の間に、かすかに輝く円が生まれる。
「わたしたち、ずっと、ひとりだった」 柚が小さく呟いた。
「うん。でも、もう違う」 真白が応える。
「三人、そろって、帰ろう」 ほのかの声には、強い意志が宿っていた。
その光は、静かに広がりながら、音のない空間を満たしていった。
そして。
白い世界が、音もなく崩れていく。
ただひとつ、優しい旋律だけを残して。
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