第七章
精神の底、灰色の空間に意識だけが浮かんでいた。水瀬柚は、声のない世界で、ただ独りたたずんでいた。
遠くに、ステージがあった。 小さな箱馬のような簡素な舞台。 その上に、光を纏った少女がひとり、立っていた。柚自身だった。 でもその姿は、どこかちがっていた。
目元がくしゃくしゃで、泣き笑いのような顔。 フリルのついた衣装は破れていて、片方の靴もない。それでも、彼女はそこに立ち、観客のいない闇へ向かって歌っていた。柚はその光景を、黙って見つめた。
ステージの少女が歌い終えると、すうっとこちらに視線を向けた。
「見てくれてたんだ。ありがとう」
その一言に、柚の胸がじんと熱くなった。
「わたし、もう誰かのためにしか存在できないんじゃないかって思ってた。でも、いまは……」
少女が一歩近づく。
「わたしのために、わたしがいても、いいって思ってる」
その言葉に応えるように、柚の心の底から何かが湧き上がってきた。 それは長い間、忘れていた感覚だった。
「わたしは……わたしでいいんだ」
柚が小さく呟いた瞬間、灰色の空間にひとつ、花が咲いた。 鮮やかな黄色の、小さな柚子の花だった。
監視室。
「第三被験体、塩化完了」
「表情は穏やかな微笑み。精神反応は異常なし、むしろ安定傾向……」
「素晴らしいですね」
アンゼル・オルバイムが手帳に記す。
「この少女たちは、塩化によって『死んでいる』のではありません。極限まで研ぎ澄まされた自己の彫刻になっています」
静かに、次のページがめくられる。
「これで、三柱が揃いました」
画面に映る三体の塩像。 そのどれもが違う形で、笑っていた。
「今回の実験は完璧です」 研究員の一人が言った。
「従来のどの被験者よりも純度の高い結晶化が起きています」
「それは彼女たちの質によるものです」 アンゼルは手帳を閉じた。
「表面的な輝きと、深い闇。それが共存する聖像ほど、美しい塩になります」
彼はゆっくりと立ち上がり、三体の塩像を見回した。
「しかし……」 年配の研究員が不安そうに口を開いた。
「彼女たちの消失は、すぐに世間の注目を集めるでしょう。警察もそれなりではありますが、すでに動いているそうです」
「それは想定内です」
アンゼルは冷静に答えた。
「我々の研究所は、表向きは存在しないことになっています。このプロジェクトの後援者たちが、すべて守ってくれますから」
「それでも、リスクは……」
「美のためなら、どんなリスクも受け入れる価値があります」
アンゼルの目は、狂信的な光を帯びていた。
「サラのときは失敗しました。彼女の命を永遠に保存することができませんでした。しかし今回は違います」
彼は真白の塩像に近づき、その表面にそっと指を這わせた。
「美しい……本当に、美しい」
――地下深くに広がる空間。
モダンな照明が柔らかく壁を照らし、大理石の床が足音を吸い込むように静かだった。
「闇の美術館です」
アンゼルの声が、静かに響く。
「塩の儀式」は、表向きは存在しない秘密の芸術運動をかねていた。政財界の要人たち、特に欧米のコレクターたちがこの芸術に惹かれ、莫大な資金を提供していた。
彼らは純粋な美への渇望から、あるいは単なる所有欲から、「生きた芸術品」を求めている。この研究所の存在も、研究員たちの身元も、すべて彼らの力で守られていると言ってよかった。
壁際には、人間の姿をした塩の彫像が何体も並んでいた。どれも皆、かつてアイドルだった人たち。そのどれもが生きているかのような表情を持ち、どこか儚げな美しさを放っている。
中央のステージだけが空いていた。それは、新たな傑作のために用意された特別な場所。
「彼女たちを、あそこに」
アンゼルの指示で、Re:Veilの三人の塩像が丁寧に運ばれ、中央のステージに設置された。
照明が調整され、三人を美しく照らし出す。アンゼルの顔に、満足げな笑みが浮かぶ。
「完璧ですね」
闇の美術館への招待状は、選ばれた者だけに届く。政治家、財閥、海外の富豪、芸術界の重鎮たち——彼らは特別な暗号と、信じがたいほど高額の「会費」を支払う。
毎月、満月の夜に開かれる「鑑賞会」は、彼らにとって秘密の社交の場でもある。彼らは真の芸術と呼び、アンゼルは崇高な実験と呼ぶ。
来訪者たちは美術館の入り口で、厳重な身体検査と電子機器の没収を受ける。誰ひとりとして写真や映像を持ち出すことは許されない。厳格な情報管理が行われ、万が一情報が漏洩した場合でも、組織全体が明るみに出ないよう設計されているのだ。
そして彼らの中には、単なる鑑賞者ではなく、次の「素材」を求め、推薦する者たちもいる。失脚しつつある若手アイドル、スキャンダルに巻き込まれた歌手、心を病んだダンサーたち——社会から消えゆく存在を、彼らは「永遠の美」として保存することを望むのだ。
アンゼルは、実は「パトロン」たちの思惑を実現する道具に過ぎなかった。だが彼自身は、自分が純粋な芸術家であり、科学者であると信じていた。
闇の美術館には、今夜も特別な招待客が訪れていた。
「これが噂のRe:Veilですか...素晴らしい」
高級スーツを着た中年の男性が、三人の塩像の周りをゆっくりと歩き回る。
「Che bellezza! Sembra viva!(美しい! まるで生きてるようだ!)」
別の来訪者、海外からの要人らしき人物が感嘆の声を上げる。
「この瞬間を永遠に閉じ込めた技術! 芸術の域を超えています!」
アンゼルは静かに彼らを見守っていた。だが、その眼差しには何か不満げなものがあった。来訪者たちの中に、彼の求める「理解者」がいないことに気づいていたのだ。
「触ってみても......よろしいですか?」
ある男性がアンゼルに尋ねる。その目は興奮に似た輝きを帯びていた。
「申し訳ありません。塩の結晶は非常に繊細ですので」
アンゼルは冷ややかに答えた。
「そうですか、残念です。彼女たちの肌に触れてみたかったのですが」
男性は微笑む。
「特にこの子......ほのかさんでしたか? 彼女の踊る姿を間近で見たかった」
アンゼルは男性を観察した。その目の奥にある欲望。それは芸術への敬意ではなく、独占や支配といった渇望のようなものだった。
「彼女たちは芸術品です。所有物ではありません」
アンゼルは静かに言った。
「しかし、あなたも彼女たちを所有しているのではないですか?」
男性は軽く笑って言った。
……その男性が美術館を出ることは、なかった。
「――アンゼルさん、この作品を購入することは可能ですか?」
金髪の外国人男性が、真白の塩像を見つめながら尋ねた。
「申し訳ありません。これらは販売品ではありません」
「いや、値段の問題ではないのです」男性は微笑んだ。
「私のコレクションに加えたいのです。私邸の特別室に専用の台座を用意してあります」
アンゼルは静かに首を振った。
「これらの作品は分離できません。三人一組で意味を持つのです」
「では三人とも買いましょう」
男性は金額を示した。それは途方もない数字だった。
だがアンゼルの中にためらいは一切なかった。もしそうしたなら彼の信念を売ることになるからだ。
「致しかねます」アンゼルは冷たく言った。
「彼女たちは商品ではなく、芸術なのです」
男性はやれやれと不満そうな表情を浮かべたが、これ以上押し問答することはなかった。
別の来訪者たちが三人の塩像の前で深く頷いていた。入るなり一目散にメインステージへ向かっていったので、どうやらRe:Veilのファンらしかった。
その表情は純粋な感動というより、「珍しいものを見た」という満足感に近かった。
「マジか……噂は本当だったんだ。真白ちゃん、こんな姿になるなんて。でも、こっちの方が好きかも」
「ほのか、俺の推しが塩になってる……クソッ、おれがあのライブの後で控室に押しかけていればこんなことには!」
「俺の柚……指のあたりから塩を少し削って、それをご飯にかけて食べたい……」
会話は次第に下品になっていき、三人の少女たちへの敬意は薄れていった。彼らにとって、塩像はただの展示物、珍しい収集品でしかなかった。
アンゼルは眉をひそめた。彼の中には複雑な感情が渦巻いていた。彼は「美の永遠化」を求めていたのに、訪れる人々は単なる所有欲、好奇心、時には歪んだ欲望を満たすためにここに来ていた。
そして、その歪んだ関心こそが、かつてのサラや他の少女たちを追い詰めたものではなかったか。
「お客様、そろそろお時間です」
アンゼルは来訪者たちに声をかけた。彼らは名残惜しそうに三人の塩像に別れを告げ、美術館を後にした。彼らが去った後、アンゼルは三人の前に立ち、長い間見つめていた。
「まったく、彼らはあなたたちを理解していませんね」
彼は静かに言った。
「あなたたちの美しさは、単なる外見ではなく、内側から来るものですのに」
彼はそう言いながら、かすかに塩の像の内側から光が漏れ始めていることに気づいた。
「これは......」
アンゼルは驚きの表情を浮かべ、三人の像に近づいた。そこには確かに、内側から生まれる光があった。それは所有や観察の対象となることを拒む、内なる生命の証だった。
アンゼルは困惑の表情を浮かべた。今まで、どの「作品」もこのような現象を示したことはなかった。
「なるほど......これは変化でしょうか、それとも抵抗なのでしょうか」
彼が像に触れようとした瞬間、ほのかの塩像から微かな音が漏れた。それは囁きのような、悲鳴のような、かすかな声だった。
アンゼルは思わず手を引っ込めた。
「まだ意識があるのですね?」
返事はなかったが、三体の像の内側から放たれる光は少しずつ強くなっていた。
――その後も、様々な来訪者が三人の前に現れた。 芸術の真髄を求める老齢の批評家は、長時間にわたって真白の塩像を観察し、涙を流した。
若い実業家は、スマートフォンを奪われることに不満を漏らしながらも、ほのかの像を前に「これを複製できないものか」と考えていた。
東欧からの要人は、柚の表情に自国の民話に登場する「塩の少女」の姿を重ね、古い言い伝えについて同行者に語り始めた。
彼らの視線は三人に注がれ、それぞれの欲望を投影していたが、三人の内側で育まれていた変化には誰も気づいていなかった。
その瞬間――。
ほのかの塩像が、かすかに明滅した。まるで警告するように。来訪者たちは驚いて後ずさり、アンゼルも困惑の表情を浮かべた。
「やはりあなたたちは......抵抗しているのですか?」
塩の内側から聞こえるような、かすかな声が彼の耳に届いた。
「私たちは......誰のものでもない!」
アンゼルは息を呑んだ。それは確かにほのかの声だった。微かだが、間違いなく彼女の声。
「おお......」彼は呟いた。
「あなたたちは塩の中でも意識を保って......いや、むしろ強くなっています」
その瞬間、真白の像からも光が放たれた。それは一瞬だったが、確かにそこにあった。
アンゼルは急いで研究員を呼び集めた。
「塩の結晶構造に異常が見られます」若い研究員が報告する。
「内部から何らかの力が......」
「もしやこれは......再生の兆候なのですか?」
アンゼルの声には、恐怖と期待が混ざっていた。
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