第六章

 柚の儀式の前に、二時間の休憩時間が全ての研究員に与えられた。疲労による集中力の低下は思わぬミスを生み出すからである。

 アンゼル・オルバイムは、実験室から離れた自室で、一人静かに座っていた。彼の周りには、小さな塩の像がいくつも並べられている。どれも人間の姿をしているが、一般的な人間よりも少し小さく、粗い作りだった。


「今日は新しい傑作ができますよ、サラ」


 アンゼルは目の前の小さな塩像に話しかける。それは若い女性の姿をしており、微笑んでいるように見えた。


「彼女たちは素晴らしいです。特に真白さんは......君に似ています。あの透明感、あの儚さ……」


 彼は優しく塩像の頬に触れる。


「覚えていますか? 君が最初のステージに立った日のこと。あの震える手。あの不安そうな目。しかし、歌い始めたら、まるで天使のように輝いていました」


 アンゼルの目に、涙が浮かぶ。


「あなたがいなくなってから、私は考えました。なぜあなたは自ら命を絶ったのか。なぜ完璧だったあなたが......」


 彼は立ち上がり、部屋の中を歩き始める。壁には無数の写真が貼られていた。すべて若い女性たち……過去の「実験体」の写真である。


「しかし今はわかります。あなたは永遠でありたかった。変わることなく、傷つくことなく、ただ美しいままでいたかったのです」


 別の塩像を手に取り、その顔を見つめる。


「ええ、キョウカ。君も同じでしたね? あなたは舞台の上でしか生きられませんでした。だから私が、永遠の舞台を作ってあげたのです」


 その塩像は踊っているようなポーズで固まっていた。アンゼルは静かにそれを元の場所に戻す。


「あるいは、カナタ。君は才能があったのに、誰にも認められませんでした。でも今は、最高の芸術として多くの人に見られています」


 彼は次々と塩像に話しかけ、まるでそれぞれが彼に応えているかのように頷いたり、時には反論するような仕草をする。


「それは間違っていますよ、スズカ。......あなたはいつも生意気でしたね。だからあなたは私以外の人に嫌われていたのですよ!」


 アンゼルは臨界点に達しそうな怒りを収めるように深呼吸し、白衣のポケットから小さな瓶を取り出す。それを開け、中の白い粉末を少量手に取り、舌に載せた。


「塩......」


 彼はつぶやく。その表情は一瞬歪み、痛みを感じているようだった。腕をまくり上げると、そこには既に結晶化が始まっている部分が見えた。皮膚の一部が白く、そして硬くなっている。


「私も、いつかあなたと同じになる。完璧な永遠の中で...」


 ――世間では、次々と消えるアイドルたちのことを『アイドル失踪事件』と呼んでいた。警察の特別捜査チームが結成されたが、まともな手がかりはなかった。


 真白の両親は、娘の失踪の知らせを受け取った後も、驚くほど冷静だった。「きっと彼女なりの理由があるのでしょう」それだけを繰り返す母親の目には、どこか諦めの色が浮かんでいた。

 子供時代から娘の「異質さ」に戸惑い続けた彼らは、もはやその存在を完全に理解することを諦めていたのだ。


 柚の母親は酒に溺れ、罪悪感と自己憐憫の間で揺れ動いていた。「あの子が消えたのは私のせいだ」と泣きながら叫び、次の瞬間には「勝手なことして、本当に迷惑な子だね!」と怒りを爆発させる。

 一方、連絡のつかない父親は、遠いどこかでニュースを見て初めて娘の存在を思い出したかのようだった。


 ほのかの家族は、最も異質な反応を示した。彼らは記者会見で完璧な悲しみの表情を見せながら、カメラの前では娘への愛情を語り、裏では保険金の手続きを進めていた。

 彼女の部屋は、失踪から一週間もしないうちに片付けられ、弟の勉強部屋として使われ始めていた。


 警察は家族への聞き取り調査を行ったが、決定的な手がかりは得られなかった。いずれの家族も、娘たちが「何か」から逃げ出す理由があったことを、心のどこかで理解していたのだ。


 ――薄明かりの差す部屋。

 静寂の中、足音ひとつすら鳴らない。機械が作ったような無機質な空間に、ただひとつ、震える影があった。

 水瀬柚。彼女は、自分の名前を心の中で繰り返していた。まるで自分がここにいることを確認するように。


「柚って、空気みたいだよね?」

「柚、いつからそこにいたの?」

「柚がいなくても楽しいよ」


 そんな言葉が、過去から何度も繰り返されてきた。愛されることを、望んではいけない。必要とされたいと思えば、すぐに誰かが入れ替わる。

 そうやって生きてきた。

 だから、明るく、元気で、みんなの空気を読んで、決して「自分のために何かして」とは言わないようにしてきた。

 あの「見られる」儀式の中でも、彼女は微笑もうとしていた。見ている人たちを安心させるために。塩基溶液が皮膚を焼くような痛みの中でも、声を上げないようにしていた。迷惑をかけないように。

 耳に刻まれた前任者たちの苦悶の声さえ、彼女は受け入れようとしていた。「私がこれを聞くべき人なのかもしれない」と。

 それが、柚の在り方だった。彼女は幼い頃から、空気を読むことに長けていた。母親の酔った息遣い。父親の不機嫌なサイン。それらをいち早く察知し、自分を「無」にすることで、危機を回避してきた。


 中学生のとき、初めて演劇部に入った。そこで彼女は発見した——「誰かになる」ことの安全さを。

 自分が存在しなくていい。誰かの役を演じていれば、批判されるのは「役」であって、「柚」ではない。

 そんな彼女が、アイドルを目指したのは必然だった。笑顔の仮面の下で、自分を消せる場所。


「でも、本当は……」


 部屋の冷たい壁に触れながら、柚は小さく呟いた。その壁の冷たさが、塩基溶液を塗られた肌の感覚を思い出させた。


「本当は、誰かに『あなたが必要なんだよ』って言ってほしかった」


 塩化される恐怖よりも、忘れ去られる恐怖の方が大きかった。あの眠れない時間に耳に流れ込んだ声々は、彼女に囁いていた。

「私たちは忘れられた。あなたも忘れられる」と。

 部屋の扉が開いたとき、彼女は既に立ち上がっていた。


「……うん。行くよ」


 誰に言うでもないその言葉は、空気に溶けた。廊下を歩きながら、彼女は少しだけ笑った。


「きっと、二人とも、もう……泣かないで、笑ってるんだろうなぁ」


 その先にあるのが地獄であっても。柚は小さな足取りで歩き続けた。どこか諦めにも似た覚悟が、彼女の中にあった。

 廊下の途中、彼女はふと立ち止まった。 壁に埋め込まれた小さなディスプレイが目に入ったからだ。


「これは……」


 画面には、塩の像になった真白とほのかが映し出されていた。 二人とも、どこか微笑んでいるようにも見える。


「二人とも……きれい」


 柚の目から、一筋の涙が伝った。 それは悲しみの涙でもあり、受容の涙でもあった。


「きっと、私も、あんな風になるんだ」


 珍しいことに、その考えに恐怖はなかった。 むしろ、どこか安堵すら感じていた。


「これで、終わるなら……」


 彼女の人生は、常に誰かのための存在だった。 だから、最後の瞬間も、誰かのために美しくあることは、不思議と納得できることだった。

 カプセルルーム。 アンゼル・オルバイムが、静かに彼女を迎える。


「水瀬柚さん。あなたには特別な興味を抱いています」

「そっか、嬉しいな」


 柚は、嘘でもなく本当でもない笑顔を浮かべた。


「あなたの在り方は、稀に見る柔軟さと従順さを兼ね備えています。理想的な聖像です」

「……聖像って、なに?」


 柚の問いに、アンゼルは静かに答える。


「誰かの望みを叶えるための器のことです」


 柚は笑った。


「そっか。じゃあ、わたし、もうずっと前から聖像だったんだね」


 その言葉に、アンゼルは満足げに頷いた。彼は柚をカプセルへと導いた。 その途中、彼女は部屋の奥に並ぶ二つの塩像を見た。真白とほのか。 二人とも、先日のライブ衣装のまま、結晶に覆われていた。

 柚は二人に向かって小さく手を振った。


「おつかれさま。ごめんね、私も……行くね」


 当然のように研究員から、同じライブのときの衣装が柚に渡された。柚がそれに着替えた後、カプセルが開く。柚は、足を進める。


「ちょっとだけ……お願いしてもいいかな」

「なんでしょう?」

「最期に、誰かの名前を呼びたいの」


 アンゼルは首を傾げる。


「お好きなようにすればよいですが……名前を呼ぶことにどんな意味がありますか?」

「ううん、意味なんかないよ。でも、それがわたしだと思うの」


 アンゼルは静かにうなずいた。


「そうですか。では、どうぞ」


 柚は目を閉じた。


「真白ちゃん……ほのかちゃん……最期の時、二人の名前を絶対に呼ぶんだ」


 その瞬間、彼女の視界が、ゆっくりと歪んでいく。


「ありがとう……二人とも、大好き」


 カプセルの中に液体が注がれていく。彼女の心は、幼い日の記憶へと沈んでいった。視界のすべてが、パステルカラーに染まっていた。


 水瀬柚は、自分が遊園地にいることをすぐに理解した。どこか古びていて、でも優しい光に包まれた場所。観覧車、メリーゴーラウンド、空をなぞるジェットコースター。子どもの頃に訪れたはずの、あの遊園地。

 ただし、それはどこか「ねじれて」いた。人影はない。音楽だけが、くるくると鳴っている。メリーゴーラウンドは誰も乗っていないのに回っている。観覧車のゴンドラが、きいきいと不気味な音を立てている。


「……ひとり?」


 柚がつぶやいた瞬間、ゴンドラのひとつが唐突に扉を開けた。誰もいないのに、開いたまま、待っている。

 彼女は吸い寄せられるように乗り込んだ。扉が閉まり、観覧車がゆっくりと動き出す。そして、ゴンドラの窓に、ある人物の姿が映った。

 母だった。ただし、その姿は明らかにおかしかった。顔は笑っているのに、目は笑っていない。腕が異様に長く、八本以上ある。その腕の一本一本から血が滴り、シートを赤く染めていく。


「ゆずちゃん、ママ、会いにきたよ」


 柚は震えながら首を振る。


「ち、ちがう! あなたはママじゃない!」


 扉が閉まる。母の顔が、ガラスに張りついている。その表情は、あの夜のままだ。

 ――怒鳴る声。ぶたれる音。笑っていたはずなのに、気づけば怒っていた。

 母親は酒に酔うと、人が変わったように豹変した。幼い柚にとって、それは予測不可能な恐怖だった。


「ごめんね、ママのせいで、パパが出ていったの」


 そう泣きながら言うかと思えば、次の瞬間には。


「あんたさえいなければ!あんたなんか生まれてこなければ!」


 そして、浴びせられた拳。流れる血。それでも笑顔を作らなければならなかった日々。柚の記憶が、強制的に開かれていく。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 膝を抱えるようにして叫ぶ。その声に応えるように、ゴンドラの中に「何か」が入ってきた。それは形のない黒い塊。だがその中に、無数の目と口があるようだった。


「柚ちゃん、大好き」

「握手会、また来るね」

「あなたのためなら何でもするよ」

「ずっとあなたを見ていたい」


 ファンの声。だがその声は徐々に変わっていく。


「柚ちゃんは、私のもの」

「私、柚ちゃんのお姉ちゃんかもしれない」

「家に連れて帰りたい」

「部屋に飾りたい」

「触りたい」

「壊したい」

「あやめたい」


 その「何か」が、少しずつ柚に近づいてくる。彼女は後ずさりするが、ゴンドラの中には逃げ場がない。

 黒い塊の一部が彼女の足に触れた瞬間、激しい痛みが走る。見ると、足が白く結晶化し始めていた。


「やめて......!」


 塩は彼女の体を急速に覆い始めた。血管が凍りつく感覚。骨が砕ける音。それでも、心臓だけは鼓動を続けている。

 観覧車が頂上に差しかかる。空は血のように赤い。そして、視界が、ぐるりと天地を反転させる。


「あっ、落ちるっ......お母さん、助け——」


 ゴンドラの中から弾き飛ばされ、全身を回転させながら落ちていく。重力に引き寄せられ、落ちる速度は漸増する。

 しかし――地面をすり抜けてさらに落ちていく。空気抵抗による圧力により体は爆散し、摩擦熱による発火により各部は燃え上がる。


「......あははっ! あはははっ! あーはははっ......!」


 究極の痛みに精神が引き裂かれる。柚の悲鳴が笑い声に変わる。制御できない、狂ったような笑い。


「アーバンゴリラ藤井......」


 最期の瞬間。渾身の力で唇をこじ開け、小さな声で名前を呟いた。

 そのまま、彼女の全身が塩の結晶に覆われた。表情は恐怖と笑いの間にある、奇妙な微笑みで固定された。

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