第三章
真白は壁に背を預け、じっと瞑想するようにして時間を過ごす。 ほのかは何度か怒りに任せて扉を叩いた後、疲れ果てて眠りにつく。 柚は、小さく歌を口ずさみながら、自分を慰めるように過ごす。
天井のライトが一度消え、そしてまた点く。それが「夜」と「朝」を表しているのか、あるいは単なる時間の区切りなのかは、誰にもわからなかった。
ある時、部屋のスピーカーから声が流れた。
「おはようございます。Re:Veilの皆さん」
その声は、驚くほどに穏やかで、礼儀正しく、まるで司会者のような響きを持っていた。
「あなた方には選ばれた『聖像』として、儀式に加わっていただきます。すなわち......『塩の柱』となっていただきます」
「塩の柱?」
「何よ、それ。ふざけてるの?」
「……よくわからないよ」
意味を理解する暇もなく、突然扉が開いた。白衣の研究員たちが無言で入ってきて、三人をそれぞれ連れ出した。廊下を歩かされ、大きな白い部屋に連れて行かれる。
部屋の中央には三つの柱が一列に並ぶように立っている、そこに真白、ほのか、柚が並んで縛り付けられた。麻のロープが肌に食い込み、痛みで顔が歪む。
「これは……なんなんですか?」柚の声が震えていた。
返事はない。代わりに、部屋の照明がより明るくなり、十数人の男性研究員たちが静かに入ってきた。彼らは三人を取り囲み、円を作るように立ち、そして…ただ見つめ始めた。
沈黙。誰も話さない。研究員たちは時折メモを取るだけで、ひたすら三人を観察している。
「身体目当てでここに連れて来たってこと? 私が身代わりになるから、他の二人には絶対に手を出さないと約束して!」
ほのかが怒りを込めて言った。しかし、研究員たちは一切反応せず、ただ冷淡な目で見続ける。
「はいとかいいえぐらい言ったらどうなの!?」
時間が経つにつれ、三人の恐怖は増していった。殴られるわけでもなく、傷つけられるわけでもない。ただ「見られる」という行為そのものが、耐え難い暴力と化していく。
「……何時間経ったかな」真白がかすれた声で尋ねた。
「わからない……」ほのかは焦燥として答える。
「でも、足がもう……痛い」柚が泣き言を言う。
彼女たちは立ったままの姿勢を強いられていた。疲労と精神的緊張で意識が朦朧としてくる頃、ようやく研究員たちは静かに退室した。
その後、三人は別々の部屋に連れて行くために縄を解かれた。三人は束の間の安堵を覚え、意識を失うように眠った。
どのくらいの時間が経過したかはわからないが、真白は白いベッドの上で目覚めた。手足が拘束されている。衣服が取り除かれ、薄い布だけがかけられていた。
恐怖で息が詰まりそうになる。そこへ数人の女性研究員が入ってきた。
「準備を始めます」
彼女たちは手袋をつけ、透明な容器から白いローションのようなものを取り出した。
「これは何?」真白が尋ねる。
「塩基溶液です。皮膚から浸透して、体内の塩化を促進します」
ある研究員が機械的に答えた。他の女性研究員たちは無表情のまま、真白の体を覆っていた布を取り除き、体にローションを塗り始めた。
「熱っ......!」
塩のローションは熱を帯びていた。大量のローションが腹部にかけられると、皮膚が異常を感知し、焼けるような痛みを発する。
「う......っ、ぐっ」
鎖骨のくぼみ、肩の周り、脇の下、腹部、太腿、足裏など、肌の薄く敏感な部分を重点的に。
「痛い……ジンジンする」真白が小さく呟いた。
「反応を記録」研究員の一人が言う。
「感覚が正常に機能している」
真白はふと、これ以上の屈辱を避けるため、舌を噛み切ろうと決意した。
「これ以上、この人たちのおもちゃにされるくらいなら......」
しかし、彼女の表情の変化を察知した研究員が素早く動き、口に装置を挿入して彼女の意図を阻止した。
「う゛っ!?」
「自傷行為は許可されていません」研究員が冷静に言った。
ほのかと柚も同様の手続きを経たが、その反応は三者三様だった。
「あの二人にはこんなことしてないでしょうね!?」ほのかは怒りを爆発させて抵抗しながらも、恐怖に押しつぶされていった。
「痛いけど気持ちいい......気持ちいいと思わなくちゃ......」柚は終始震えながら、自分に言い聞かせるように過ごした。
塩基溶液は徐々に皮膚に吸収され、三人の体内で広がっていく。それは後の塩化プロセスの前準備だった。
「塩基溶液の浸透が完了しました。体内のナトリウム・カリウムイオンバランスが変化し始めています」
研究員が機械的に報告する。 塩化のプロセスは、量子生物学と古代の防腐処理技術を融合させた複雑なものだった。その核心は「意識・物質相互作用」理論にあった。
人間の精神活動が生み出す微細な電磁場パターンが、塩基溶液に含まれる特殊な結晶核と共鳴することで、意識そのものが物理的な結晶構造に「記録」されるのだ。
通常の塩の結晶は単純な立方体構造だが、塩化プロセスで形成される結晶は、非ユークリッド幾何学的な高次元パターンを内包していた。その複雑性は、被験者の精神の豊かさに比例して増大する。
「精神反応と連動して結晶化が促進されるよう、脳内伝達物質も調整済みです」
研究員たちは、この技術がどこから来たのかを正確には知らなかった。「組織の長」だけが、東欧の廃墟となった秘密研究所で発見した古い文書と、「ある出来事」から得た独自の洞察を組み合わせて完成させたことを知っていた。
「この被験体の精神パターンは特に複雑です。結晶化が完了すれば、これまでで最も美しい『聖像』になるでしょう」
塩基溶液の塗布が終了した後、三人はさらに別々の部屋に連れて行かれた。今度は椅子に縛り付けられ、VRセットをされ、特殊なヘッドホンを装着させられた。
真白の耳に、女性の声が流れてきた。
「ここはどこ……? 助けて……痛い……!」
それは苦しみに満ちた声だった。
「私の体が……凍っていく……怖いよ」
続いて、鋭い悲鳴。そして静寂。また別の声が聞こえ始める。
「お願い……もう嫌……苦しい」
「見ないで……見ないで......!」
「私はただの商品……じゃない……」
真白は理解した。これは彼女の前に「聖像」にされた少女たちの声だった。彼女たちの最期の言葉。恐怖と絶望に満ちた叫び。
別室では、ほのかと柚も同様の体験をしていた。
「許してください! お金ならいくらでも払います! だから......!」
「お母さん......助けて! お家に帰りたい......!」
「バカなお姉ちゃんでごめんね......大好きだよ」
柚が聞かされたのは、若い少女たちの懇願。母親を呼ぶ声、故郷を思う声、そして最後に諦めの声。
「いやあああ! 痛い! 痛いよお!」
「ここから出して! 体が動かない!」
「喉の奥が塩で......声が......でな......あっ」
ほのかの耳には、踊り手たちの苦しむ声。筋肉が凍りつく痛み、関節が硬直する恐怖を訴える声々。
三人とも同じ映像が映し出された。その姿に、三人は息を呑んだ。それは以前、同じ事務所に所属していた先輩アイドル、キョウカの声だった。
「私……どうなるの? これから……どうなるの?」
キョウカは半年前に突然「個人的な理由で」活動を休止したことになっていた。三人は彼女と親しかった。
キョウカの後ろにいるのは同じく「塩の柱」になりかけているアイドルたち。彼女たちが泣き叫ぶ声が三人の精神を抉る。
「お願い……もう終わりにして……」
キョウカの声が、恐怖と悲しみに満ちていた。そして精神が途切れた。
「マ゜ア゜ア゜ア゜ア゜ア゜ア゜アアッ!!!」
「福祉のスペシャリストになりたい! 福祉のスペシャリストになりたい!」
「長崎にね! 長崎に行ったらね! 桜のこと梅って呼んであげようと思うの!」
「穴の女王!? 雪と穴の女王?!」
三人の心に響くのは、思考と精神が完全に粉砕され、本人たちでさえ何を言っているのか理解していないほどの、目の前のアイドルたちが放つ意味不明な叫び。
映像を延々と見せられ続けるにつれ、三人の精神はゆっくりと崩れていった。恐怖と絶望が心を侵食し、次第に無感覚になっていく。
「これが私たちの運命……」
真白は震える唇でつぶやいた。何時間後か、あるいは丸一日経ったのか。ようやくヘッドホンとVRセットが外された時、三人の目には同じ虚ろな表情が浮かんでいた。
そして、彼女たちは元の部屋に戻された。部屋のスピーカーから再び「声」が流れた。
「聞こえますか、Re:Veilの皆さん」
その声は、驚くほどに穏やかで、礼儀正しく、まるで司会者のような響きを持っていた。
「塩の柱にする準備ができました、順番にこちらへ来ていただきます」
各部屋に同時に流れていたであろうその声に、三人はそれぞれ違う反応を示した。
真白は無言で椅子に座ったまま、耳を澄ませた。ここ数日の「準備」で、彼女の中にあった抵抗心は薄れていた。あの声々がこれから自分が体験することを示していると理解していた。
ほのかは、怒りのこもった目で天井を睨みつけた。しかし、その目には前のような活力はなく、疲労と諦めが混じっていた。
柚は毛布をかぶり、震える手で耳を塞いだ。あの声々が彼女の心に刻み込まれ、永遠に消えない恐怖となっていた。
「まもなく、第一の聖像が選出されます」
そして、機械音とともに、真白の部屋の扉だけが静かに開いた。
白く光る廊下。その奥に、何かが待っていた。真白の心臓が、わずかに早く打った。
それは恐怖ではなく、どこか「解放」に近い感覚だった。閉ざされた部屋から出られるという事実に、彼女は小さな期待を抱いた。
「どうして私が『聖像』なの?」
真白が、淡々とした口調で呟いた。
白い廊下を歩きながら、彼女の頭の中では様々な思考が交錯していた。 この廊下の先に何があるのか。ほのかと柚はどこにいるのか。そして、この自分を「聖像」と呼ぶ声の主は誰なのか。
廊下は驚くほど長く続いていた。足音は驚くほど静かで、周囲には反響すら存在しない。壁には何も書かれておらず、ただ白い空間が続いているだけ。天井の照明はまばたきのように点滅し、どこか心を落ち着かせない。
真白の腕に付けられているブレスレットが歩くごとに僅かに脈動している気がした。だがそれが何を意味するのかは見当がつかなかった。
――どれほど歩いたか。廊下の果てに現れたのは、重厚な黒い扉だった。
その前に立つと、自動的に開く。内部には、ひとつの椅子と、ガラス張りのカプセル。そして、その背後に佇む男がいた。
「Re:Veilの真白さん、ようこそお越しくださいました」
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